第22話 神さまは、名前をひとつも忘れない(三)
礼拝堂は、城の東の端、崖に面した小さな塔の中にあった。
扉には、錆びた錠前。脇の明かり取りの窓だけが、掛け金が凍って壊れている。雪が窓の下まで吹き溜まっていて、窓枠は、私の腰ほどの高さに見えた。
グラウは扉の前に、どさりと座った。誰も入っていない扉の前に。
窓枠に腰掛け、肩をすぼめて、足から先に中へ滑り下りる。思ったより、深い。床は外の雪面より、ひと抱えぶん低いところにあった。降り積もる冬の雪が、塔を少しずつ埋めていたのだ。
埃が、舞い上がった。
九年分の埃だった。
細い光の筋が一本だけ差しこんで、その中を、埃が雪のようにゆっくりと降りていく。木の長椅子が六列。小さな祭壇。その奥に、雪に覆われた色硝子の丸窓がひとつ。
目を凝らすと、白い翼が見えた。嘴に、緑の葉を一枚くわえている。
箱舟の、二度目の鳩。
「お邪魔します」
誰もいない長椅子に頭を下げて、袖をまくる。
床を掃く。長椅子を、一脚ずつ拭いていく。灰色の粗い石は、磨いても大聖堂の大理石のようには光らない。
けれど、磨けば磨いただけ、石の本当の色が戻ってくる。
三列目の長椅子の下に雑巾を差しこんだとき、指先に、小さくて硬いものが触れた。
木彫りの小鳥だった。
手のひらに載るくらいの。翼の線はいびつで、くちばしは少し曲がっている。上手な人の彫り方ではない。一生懸命な人の彫り方だ。
首に、色あせた赤い糸が一本。
丸い胸のあたりだけが、つるつるにすり減っていた。何百回も、何千回も、同じところを握られた跡。
くちばしの先に、小さな歯の跡が、いくつも重なっている。
私の麻袋の底にも、宝物がある。誰にも見せたことのない、すり減るほど触ってきたものが。
だから、わかる。
これは、落とし物ではない。
ふわり、と百合の香りがした。
礼拝堂いっぱいに。今までで、いちばん濃く。
『――リーネ』
神さまが、その名を呼んだ。
私にではない。この部屋のどこかにいる小さな誰かを、膝の上に呼び寄せるみたいに。
あの厨房で、私を呼んだのと、同じ声だった。
『あの子のものじゃ。最後の冬は雪が早うて、崖の百合を摘みに行けなんだ。じゃから毎晩、百合の代わりに、これを握って眠った』
小鳥を、両手で包む。
小さな手の形に、すり減った胸。そこに、私の手が重なる。
『父親はな、あれから、一晩も欠かさず、わしに祈っておる。じゃが、あの子の名だけは、一度も声に出さん。出したら、崩れてしまうでのう』
百合の香りの中で、神さまの声が、少しだけ低くなった。
『わしは、待っておる。あの男が、あの子を呼ぶのを』
窓の外で、雪を踏む音がした。
グラウが、喉の奥で、くうん、と鳴く。
「聖女さま?」
窓の外の雪に膝をついて、オットーさんが覗きこんでいた。
「グラウが扉の前に座ってるんで、何事かと。こんなところで、何を」
その目が、磨いた長椅子を、祭壇を、順に見る。
三列目で、止まった。
それから、私の手の中の、小さな木の鳥に。
「……それ、は」
オットーさんの顔から、表情が、すっと抜け落ちた。
袖の中に、絹の布がある。王都の殿下が泥水に捨てた布。濯いで、乾かして、宝物の袋にしまっていた。今朝、なぜか袖に移してきた。
その絹で、小鳥を包む。
窓のそばまで歩いて、両手で差し出した。
「三列目の、長椅子の下に」
オットーさんは、受け取らない。
凍傷の痕のある大きな手が、窓枠を握りしめたまま、白くなっていく。
何か、言わなければ。
何を言っても、この人の長い冬には届かない気もした。
「……くちばしのところだけ、丸いんですね」
それしか、言えなかった。
オットーさんの目が、ゆっくりと、小鳥に下りる。
手が、窓枠から離れた。伸びてくる。指先が絹に触れ、布をめくり、すり減った胸に触れる。
節くれだった親指が、くちばしの先の、小さな歯の跡をなぞった。
「……ちいせえ頃は、くわえて寝てたんです」
かすれた声だった。
「こいつが歩き出した年に、彫ってやって。よせって言っても、朝になると、くわえてて。とげが刺さるって、アンナが泣いて」
親指が、止まらない。
「しょうがねえから、くちばしだけ、夜なべして削り直して。丸く。刺さらねえように。……七つになっても、寝るときは、握ってました」
ふわり、と。
窓の外の雪の中に、百合の香りが流れていった。
オットーさんの親指が、止まる。
「……百合だ」
顔が上がる。雪しかない崖を、見回す。
「冬に、咲くはずがねえ。……裏の崖のだ。あいつが、毎年、一輪だけ摘んでくる」
オットーさんの声が、かすれた。
「……夏になったら、また取りに行こうって。約束、してたんです」
(百合の代わりに、握って眠った)
さっき聞いたばかりの言葉が、耳の奥で、もう一度鳴る。
答えられなかった。
代わりに、私が知っていることだけを、言う。
「神さまは、名前を、ひとつも忘れない方なんです」
自分の声が、少し震えている。
「私も、この前、教わりました。自分の名前を、呼んでいただいて」
オットーさんは、私を見た。それから、両手で、小鳥を受け取った。絹ごと、窓枠のこちらから、向こうへ。
オットーさんが、息を吸う。白い息が、ひとつ、雪の中にほどけた。
「――リーネ」
九年ぶりに、その名が、声になった。
一度、呼んだら、もう止まらない。
「リーネ。リーネ……っ」
オットーさんは、窓の下の雪の上に、崩れるように膝をついた。小鳥を胸に押し当てて、背中を丸める。
「火、つけようとしてくれたんだなあ。ひとりで。とうちゃんが、来るまで」
小鳥を抱いた背中が、波のように揺れる。
「遅くなった。とうちゃん、遅くなったなあ。寒かったろう。ごめんな。ごめんなあ」
大きな体の、白髪まじりの兵士が、七つの女の子に、何度も、何度も謝っていた。
グラウが雪の上を歩いてきて、その背中に、体を押しつける。
窓から身を乗り出して、震える背中に、手を置いた。
百合の香りが、雪の中に、静かに降りてくる。
オットーさんの隣に、もうひとり、膝をついている。
見えなくても、わかった。
神さまは、ずっと待っていた。この人が、あの子の名を呼ぶのを。
この人も、ずっと待っていた。あの子の名を、呼べる日を。
ふたつの待っていたものが、今、雪の中で、ひとつになる。
雪が、オットーさんの肩に、うっすらと積もっていく。
嗚咽が、少しずつ静かになっていった頃、雪を踏む、別の足音がした。
重くて、規則正しくて、少しだけためらう足音。
「――誰が、ここを開けろと言った」
塔の角に、黒い外套の閣下が立っていた。後ろに、ギルバートさま。ずいぶん長く、そこにいたような顔をしている。
「閣下、これは、私が勝手に――」
窓枠に手をついたまま言いかける。それより先に、オットーさんが顔を上げた。
涙で、ぐしゃぐしゃの顔。胸には、小さな木の鳥。
「閣下。リーネの、小鳥です」
閣下の目が、小鳥に落ちる。
アイスブルーの瞳が、わずかに、見開かれた。
「弔いの日に、ここに置いていきました。墓に入れてやることも、持って帰ることも、できなくて。……ずっと、神さまに預けっぱなしでした」
オットーさんは、膝をついたまま、閣下に向き直った。背筋を伸ばして。
「閣下。俺は、ずっと言えなかったことがあります」
閣下は、動かない。
「遅れたのは、俺です。薪が四日分あるうちに、俺が出ていれば、間に合った。……怖くて、二日、待ったんです。娘が死ぬかもしれないって、認めるのが」
オットーさんの喉が、ごくりと鳴る。
「閣下じゃない。俺なんです」
閣下の肩が、小さく揺れた。
「あの冬、閣下は、間に合わなかったんじゃない。来て、くださったんです。十六の子どもが。掟を破って、吹雪の中を」
声が、震える。
「リーネは、冷たい竈の前で逝ったんじゃない。閣下が組んだ火のそばで逝ったんです。明るくて、あったかいところで」
小鳥を、胸に強く押し当てる。
「閣下は、戸口の隙間風のところで、ずっと凍えてた。それでも、火を絶やさなかった。俺は、見てました。九年、ずっと、覚えてました」
オットーさんは、閣下をまっすぐに見上げた。
「だから、もう、ご自分を、あの雪の中に置いておかないでください」
雪が、銀灰色の髪に、肩に、静かに降り積もっていく。
閣下の唇が、一度だけ、動く。
音には、ならない。けれど、三つの音の形をしていた。
そのとき、丸窓の雪が、ずるりと、音もなく滑り落ちた。
雲の切れ間から差した冬の朝日が、色硝子を透かす。
白い翼。緑の葉。
若い葉をくわえた鳩の光が、赤と、青と、金の縁取りをともなって、磨いたばかりの床の上を、ゆっくりと渡っていく。
拭いたばかりの長椅子の脚を。戻ってきた石の色を。
そして、三列目の長椅子の下で、止まった。
小鳥が、ずっと、待っていた場所で。
雪の落ちる音さえ、しない。
閣下が、明かり取りの窓のそばまで、歩いてきた。身を屈めて、私の肩ごしに、中を覗く。
自分で鍵をかけた場所に、差しこむ光を。長いあいだ、見ていた。
それから、黙って踵を返す。
塔の角を曲がる直前、ほんの一瞬だけ、足が止まった。振り返りはしない。ただ、外套の袖で、顔のあたりをひとつ拭ったように見えた。
ギルバートさまは、主君の背中を見送ってから、眼鏡を外した。ハンカチで、レンズを拭いている。汚れてもいないレンズを、何度も。
オットーさんは小鳥を胸に抱いて、グラウと一緒に、兵舎のほうへ帰っていく。
雪の上に、大きな足跡と、犬の足跡が並ぶ。
オットーさんの肩に積もっていた雪が、歩くたびに、さらさらと落ちていく。




