第26話 幕間 三人の夜
◆ 幕間 王子ジュリアンの夜
寒い。
寒いったら、寒い。
暖炉には火が入っている。薪は六本。あの眼鏡の男が「客人には、規定の量を」などと、帳簿でも読み上げるような顔でくべさせた六本だ。城のどの部屋よりも大きな火なのだと、恩着せがましく言い添えて。
六本がなんだ。王都の俺の部屋なら、二十本は燃えている。
ジュリアンは、毛布を三枚重ねたまま、寝台の上で歯を鳴らした。
腹が立つ。
何もかもに、腹が立つ。
あの女はいつも通りだった。床に這いつくばって、麦を拾っていた。王都の回廊で、十年、毎日そうしていたように。それはいい。あの女はそういうものだ。
問題は、そのあとだ。
なぜ、北の兵どもが、あの女の隣に膝をつくのだ。
料理番の女まで。鍛冶屋まで。眼鏡の男まで。あげくの果てに、氷竜まで!
王子の俺が、スープを床にぶちまけてやったのだぞ。普通、皆で青ざめて、あの女を責めるところだろう。「殿下のお手を煩わせるな」と。そういうものだろう。
それなのに、誰も、こちらを見なかった。
二十人もいて、一人も。
「……無礼にもほどがある」
そうだ。無礼なのだ。北の城は、礼儀を知らない。
ジュリアンは、がばりと身を起こした。
母上に、手紙を書こう。
頭の中で、書き出しを考える。
――母上。北の辺境伯は、王家の者を公然と侮辱いたしました。
いい。実にいい。
――兵どもは、田舎者の礼儀も知らず、王子たる私を差し置いて、あの欠陥品の周りに群がり……
いい。これで悪いのは、あいつらだ。俺は何も間違えていない。
書き出しを考えているあいだだけ、胸のあたりが、少しだけ楽になる。
――母上も、さぞ、お怒りのことと存じます。
そこで、ジュリアンの頭の中の筆が、止まった。
母上は、怒るだろうか。
怒らないかもしれない。
扇を、ぱちりと閉じて。窓の外を見て。こちらの顔は一度も見ずに、「あなたは、笑っていればよかったのです」と言うだけかもしれない。
いや、たぶん、そう言う。
母上は、いつもそうだ。
ジュリアンは、毛布を握りしめた。
書き直そう。もっと、ひどい目に遭ったことにしなければ。もっと、俺が正しかったことに。スープは、あの女のほうから掛かってきたことにしてもいい。
書き直す。書き直す。何度書き直しても、胸の中は、ちっとも楽にならない。
だって、本当は、わかっている。
王子は偉い。偉いから、皆が頭を下げる。偉くなければ、誰もこちらを見ない。
母上が、そう教えた。だから、偉くあろうとしてきた。王都の部屋の四枚の鏡に映る自分は、いつだって、ちゃんと偉い顔をしている。
七つの冬だった。母上が、あの鏡を、四枚、誂えさせた。
「あなたが見るべきものは、あなた自身です。人の顔色など、見なくてよろしい」
その夜から、俺の部屋は、どちらを向いても俺だ。眠る前に、四人の俺が、四方から俺を見ている。偉い顔をしろ、と。
回廊で、初めてあの女を蹴った日のことも、覚えている。十だった。蹴ってから、振り返る。少し離れたところに、母上がいる。
母上は、扇を閉じて、何も言わずに歩いていく。
褒められない。叱られもしない。
だから、次は、もっと強く蹴った。
母上は、一度も、振り返らなかった。
なのに今夜、偉くも何ともないあの女の隣に、膝をついた者が、二十人。
偉くなくても、人は、隣に来るのか。
それなら――偉い俺の隣に、誰も来ないのは、なぜだ。
「……くそっ」
その先は、考えたくない。
ジュリアンは、ばたんと寝台に倒れこんだ。
寝返りを打ったとき、戸口のほうで、こつ、と小さな音がした。
「――誰だ」
答えはない。
扉の隙間から、何かの匂いがした。花の匂いだった。この雪しかない城に、あるはずのない、甘くて澄んだ、白い花の匂い。
ジュリアンは、身じろぎもせずに、その匂いを嗅いでいた。
何かを、思い出しそうな気がした。
けれど、何も出てこない。
誰かが、自分のために花を摘んできてくれた朝。卓の上の碗に、それを挿してくれた手。
どこを探しても、そんな思い出は、ひとつもなかった。
王都の部屋に飾られていたのは、いつも、庭師が温室から切ってきた、名前の長い花だった。母上の侍女が、朝のうちに生け替えていく。花瓶は四つ。鏡の前に、一つずつ。
鏡に映すための花だった。
「……安っぽい香水だな」
鼻で笑って、毛布を頭までかぶる。
「風の音だ。田舎の城は、建てつけが悪い」
戸口で、もう一度、こつ、と音がした。
毛布の中で、両手で、耳を塞ぐ。
――あの女は、スープを浴びても、悲鳴を上げなかった。
塞いだ耳の中で、なぜか、そのことばかりが鳴っている。
熱かったはずだ。王都の回廊でも、あの女は、一度も泣かなかった。泣きもしない、可愛げのない女だ。その女の隣に、なぜ。
それから、氷竜が、膝をついたまま、あの女に何か小声で言った。あの女も、小声で答えた。
俺には聞こえない。二人にしか聞こえない声。
俺は、生まれてから二十年、誰かと、ああいう声で話したことがない。
母上とも。父上とも。四枚の鏡の中の、俺とも。
戸口で、三度目の音がした。
ジュリアンは、聞こえないふりをする。
――聞こえないふりをする、というのは、聞こえているということだ。
彼はそれに、まだ、気づいていなかった。
◆ 幕間 従者パヴェルの夜
眠れない。
寒いからだ。それ以外に、理由はない。
従者の寝所は、馬房の上の屋根裏だった。藁の匂いと、馬の匂い。下から、ぶふう、と鼻息が上がってくる。帝国の従者は、北の城では馬と同じ扱いらしい。
まあ、いい。帝国でも、似たようなものだ。
侯爵さまの靴を磨いて、侯爵さまの荷を運んで、侯爵さまが「おい」と言えば走る。名前を呼ばれるのは、叱られるときだけだ。それでも、仕事はできる。
廐の裏に出たのは、小便のためだった。それだけだ。
厨房の窓に、灯りがついている。
覗くつもりはなかった。通りがかったら、見えただけだ。
灰色の仕着せの娘が、洗い場で椀を洗っている。大広間で、王子さまにスープを浴びせられた娘だ。膝をついて、麦を拾っていた娘。
足元に、大きな灰色の犬が寝ている。
娘は洗い終えた椀を伏せて、前掛けの隠しから、何かをつまみ出した。窓辺に、そっと置く。
麦の粒。ひとつまみ。大広間の床で、あの娘が拾っていた麦だ。
(鳥にやるのか)
パヴェルの村では、鳥にやる麦などない。人の口に入る分だって、足りない年のほうが多かった。冬に鳥が死ぬのは、当たり前のことだ。
娘は窓を閉める前に、目を閉じて、何か言った。
声は聞こえない。けれど口の形が、少しだけわかる。
――ありがとうございます。
誰に言っているのか、わからない。窓の外には誰もいない。厨房にも、犬しかいない。
(頭が、おかしいのか)
そう思っておくことにした。そのほうが、面倒がない。
けれど、そのときだった。
廐の裏の雪の上に、花の匂いがした。
冬の北の、雪しかない場所で。白い花の匂い。
パヴェルは、思わずあたりを見回した。誰もいない。馬の鼻息と、雪の降る音だけ。
「……気のせいだ」
口に出して、屋根裏へ戻る。
毛布にくるまって、目を閉じた。
眠れない。
匂いが、消えないのだ。鼻ではなく、胸の奥のほうから。
パヴェルの村の崖には、夏になると、白い花が咲いた。名前は知らない。村の誰も知らない。母がそれを摘んできて、粗末な卓の上の、欠けた碗に挿した。
花を飾る余裕なんて、どこにもない暮らしだった。それでも母は、毎年、一度だけ摘んでくる。
「これがあると、家が家になるんだよ」
そう言って、笑っていた。
子どものころ、母が摘んできた花を、最初に持たせてもらうのは、いつも自分だった。碗に挿すまでの、ほんの少しのあいだだけ。
母が死んで、五年になる。
そのあいだ、あの花のことは、一度も思い出さなかった。思い出すと、帰りたくなるからだ。帰る家は、もう、ない。
それなのに今夜、北の果ての馬房の上で、あの匂いがする。
パヴェルは、毛布の中で、右の手のひらを、そっと閉じた。
あの細い茎を、握っていたときの形に。
「……まいったな」
誰にも聞こえない声で、そう言った。
◆ 幕間 辺境伯ヴィルフリートの夜
暖炉には、薪が一本。九年、そう決めてきた。
ヴィルフリートは、机に向かったまま、何も書いていなかった。グラウが足元で、腹を床につけている。
目を閉じると、昼間の雪の声が戻ってくる。礼拝堂の窓の下で、オットーが言っていた。
――裏の崖のだ。あいつが、毎年、一輪だけ摘んでくる。
塔の角で、全部、聞いていた。
あの子が、何を好きだったのか。一度も、知らなかった。知ろうとしなかった。知ってしまえば、あの子は、名前だけの死者ではなくなる。百合を摘みに、ひとりで崖を登る、生きた女の子になる。
その子を、自分は、死なせたのだ。
ヴィルフリートは、立ち上がった。
外套を取る。グラウが、何も言われないうちに、戸口に立っている。
月のない夜だった。
霜降り村へは、村の中を通らずに、崖のほうから回った。家々の屋根が、雪の下に低く並んでいる。そのうちの一軒の煙突から、細い煙が上がっていた。
アンナの家だ。
生きている煙。あの冬、自分が守れた、たったひとつの煙。
馬を下りて、崖の上に立つ。
どこに咲いていたのかは、わからない。崖の下の道は、見回りで何度も通った。上を見たことは、なかった。
グラウが、雪に鼻をつける。鼻を鳴らしながら嗅ぎまわって、ある場所で止まる。前足で、二度、雪を掻く。
雪の中から、茶色く枯れた茎が、一本だけ突き出ていた。
去年の夏の百合だ。
咲いて、誰にも摘まれずに、そのまま枯れた茎。
あれから毎年、咲いていたのだ。摘みに来る子がいなくなってからも。誰も見ていない崖で、一輪ずつ。
ヴィルフリートは、雪の上に膝をついた。
手袋を外す。革の手袋では、凍った土に指が立たない。
素手で、掘る。
土は、石のように硬い。爪の間に、冷たいものが食いこむ。指先の感覚が、すぐになくなる。それでも、掘る。掘り続ける。
あの冬、小屋の戸口の隙間風の中で、薪をくべ続けた日。あのときも、指の感覚は、なかった。
あのとき、自分の手は、間に合わなかった。
今、この手は、間に合っている。
指先に、丸いものが触れた。
土の中で、球根が、眠っていた。ひとつ。親指の先ほどの芽を、もう、上に向けて。
ヴィルフリートは、それを掌に載せたまま、長いあいだ、動かなかった。
生きているあの子の顔を、自分は、覚えていない。
知っているのは、竈の前で、枝を握りしめたまま丸くなっていた、小さな背中だけだ。
この花を、あの子は、毎年、摘んでいた。夏の、陽の当たるこの崖を、ひとりで登って。
唇が、動いた。
声には、ならなかった。
グラウが、膝に、鼻を押しつけてくる。
首に巻いていた布を外して、雪で湿らせる。球根を、それで包んだ。凍らないように。指がかじかんで、結び目が、うまく作れない。三度、やり直した。
城に戻ったのは、夜明け前だった。
礼拝堂の扉の前で、足が止まる。
鍵は、もう、ない。あの娘の手のひらに、置いてきた。
入れない。
自分には、あそこへ入る資格がない。ずっと、そう思ってきた。
扉の前の石段に、布の包みを置く。胴着から紙片を出して、炭で書いた。
――霜降り村の崖で見つけた。ここに置け。
それだけ書いて、紙片を、包みの結び目に挟む。
立ち上がって、扉を見た。
あの冬、自分で錠をかけた扉。母が好きだった場所の、扉。
手のひらを、そっと、板に当てる。
冷たい。掘ったばかりの指先には、痛いほど。
叩きはしない。開けもしない。
扉の上には、小さな軒が張り出している。その下だけ、石段に雪がない。ヴィルフリートは、包みをそこへ寄せた。
それから、扉に背を預けて、軒の下に腰を下ろした。
グラウが、すぐに隣に来る。包みと、自分の脚のあいだに、体を丸めて。
夜明けまでは、まだ少しある。
「……グラウ」
グラウが、耳だけ動かした。
「あの子は、白い百合が好きだったそうだ」
声に出すと、思っていたより、かすれていた。
「毎年、あの崖を、ひとりで登って、一輪だけ摘んできた。小鳥の木彫りを、握って眠っていた。くちばしは、父親が夜なべして、丸く削ってやったそうだ。とげが、刺さらないように」
誰にも、言えないことだ。
オットーにも、ギルバートにも。言えば、あの子が生きていたことを、自分の口で認めることになる。
だから、グラウに言った。
「九年、知らなかった。……知ろうと、しなかった」
グラウが、首を伸ばして、土だらけの指を舐めた。一本ずつ。爪の間に食いこんだ土まで、丁寧に。
温かい舌。
目の奥が、熱い。泣き方は、もう、忘れていた。忘れたことにしてきた。
ヴィルフリートは、グラウの首を、両腕で抱く。灰色の毛の中に、顔を埋める。
あの冬も、グラウだけが、そばにいた。
東の空が、白み始める。
ヴィルフリートは、立ち上がった。グラウも、黙って立ち上がる。
一人と一匹で、雪の中を戻っていく。
一度だけ、振り返った。軒の下に、小さな布の包みが、ひとつ。
九年のうちで、いちばん、寒くない朝だった。
今日は土曜日で週末なので、朝8時 昼間12時と22時に投稿します




