第25話 高い塔には、戸がない(二)
給仕が終わって厨房に下がってから、仕着せの胸元を見た。
スープの染みが、胸から腹まで、広がっている。神さまの風のおかげで火傷はしなかったけれど、布は、だめかもしれない。
「エルザさんに、謝らないと」
「謝るこたないよ」
マルタさんが、鍋の湯を汲みながら言った。
「あの女なら、『染みくらい抜いてみせるよ』って言うに決まってる。それより、あんた、腹に湯たんぽでも入れてたのかい。あんな熱いのを浴びて、悲鳴ひとつ上げなかった」
「我慢しました」
「嘘だね」
マルタさんは、それ以上訊かない。代わりに、湯を張った盥を、私の前にどん、と置いた。
「胸元を拭きな。それから、仕着せは脱いで、洗い場に浸けとく。あんたの修道服は、あたしが繕っといた。裾の裂けたところ」
「マルタさん」
「礼はいいよ。針を持つのは、久しぶりで、楽しかったんだ」
厨房の扉が、こつ、と鳴った。
ギルバートさまが立っている。手に、包みを持って。
「これを」
調理台の上に置かれたのは、厚手の毛織りの布だった。灰色の、きめの細かい。
「西棟の衣装部屋に、先代夫人のものが残っていました。閣下の母君の。母君が亡くなられてから二十年、誰も手を触れていない部屋です。仕立て直せば、貴女の丈に合うでしょう」
布に触れる。柔らかい。修道服の麻とは、まるで違う手触り。
(推しの、母君の、布)
前世の言葉で言うなら、公式の記念品どころではない。家宝だ。いや、聖遺物だ。
『セラや』
(すみません神さま、でも、これは)
『布は、布じゃ』
それから、少しだけ、やわらかい声になった。
『……じゃが、あの子の母が、いちばん好きだった色じゃよ』
指が、布の上で止まる。
「これは、私がいただいていいものではありません」
「では、誰が着るのです」
ギルバートさまは、一度だけ、眼鏡を押し上げた。
「この城に嫁いでこられたのは、貴女だけです」
「あの部屋を開けろと言われたのは、今夜が初めてです。開けろ、とだけ。この布を選んだのは、私が勝手にやったことです。……何枚かあった中で、いちばん、貴女の髪の色に映る布を」
最後の一言だけ、少し早口だった。
「閣下は、執務室に戻られてから、しばらく、ご自分の手を見ておられました」
そこで、言葉を切る。
「スープのついた手を。洗わずに。長く」
毛織りの布を、胸に抱いた。
(推しが。私のスープの、ついた手を。洗わずに)
胸の奥で、前世の私が床に崩れ落ちている。
『セラや。今は、泣くところじゃろう』
(泣いてます。中で)
「それから」
私の顔を見ずに、ギルバートさまは続ける。
「火傷は」
「してません」
「見せてください」
「……え」
「胸元です。熱いスープを、まともに浴びたはずです。赤くなっていれば、水で冷やさねばなりません。マルタ、湯ではなく、水を」
「あんたね」
マルタさんが、盥の前で腰に手を当てる。
「娘の胸元を見せろって、そりゃ、どういう了見だい」
ギルバートさまの動きが、完全に止まった。
眼鏡の奥で、琥珀色の目が二度、瞬く。それから、みるみる、耳から首筋まで真っ赤になる。
「っ、そ、そうではありません! 私は、その、医務の話を――薬草の在庫が――手当ての順序として――」
「あたしが見るよ。あんたは出ていきな」
「……失礼しました」
直角に頭を下げて、厨房を出ていく。扉が閉まったあと、廊下の足音が、いつもより速く遠ざかっていく。
マルタさんが、鼻を鳴らした。
「あの堅物が」
「ギルバートさまは、手当てのことを心配してくださっただけです」
「そうだね。そうに決まってる」
盥の湯に布を浸しながら、マルタさんは、独り言のように言う。
「あの子が誰かの心配をするのを、あたしは見たことがない。閣下以外にはね」
その夜は、胸がざわざわして、なかなか寝つけそうになかった。
窓辺に膝をついて、手を組む。灰色の仕着せは洗って干した。染みは、あまり落ちない。窓枠の外側では、山鳩が二羽、身を寄せ合って眠っている。
「神さま」
『うむ』
「今日、大広間で、皆さんが膝をついてくださいました。私、何て言ったらいいんでしょう。私が偉いわけじゃないんです。ただ、拾っただけで」
百合の香りが、ふわりと広がる。
『お主が偉いのではない。あの者らの胸の中に、まだ、誰かの隣に膝をつける場所が残っておった。それだけのことじゃ』
少しだけ、嬉しそうな声だった。
「侯爵さまの家には、皇帝陛下の像がありました」
『うむ』
「殿下の家には」
燭台の芯が、じ、と小さく鳴る。
『鏡じゃ。あの子の部屋にはな、四方の壁に、大きな鏡がある。七つのとき、母親が誂えさせた』
雪が、また降り始めている。
『どちらを向いても、自分しか映らん部屋じゃ』
目を閉じる。
回廊で、蹴ったあと、殿下は必ず母親の顔を見た。褒めてほしい子どもの目で。
そして母親は、一度も、殿下の顔を見なかった。
四枚の鏡の中で、殿下はずっと、映らない誰かを探していたのかもしれない。
「神さま。私の推しも、殿下の鏡と同じだったんでしょうか。遠くから、自分のために、眺めていただけで」
干した仕着せの裾から、ぽたり、と雫が落ちる。
『鏡はな、自分を映す。お主の本は、あの子を映しておった』
雪が、窓硝子に当たる。
『それにお主は、毎晩、あの子の眠りを祈っておったろう。鏡は、祈らん』
「殿下の鏡は、いつか割れるんでしょうか」
『割れるじゃろうな』
目を開ける。
夜の窓硝子に、私の顔が、うっすらと映っていた。その向こうで、雪が降っている。
『じゃがな、セラ。部屋の鏡なら、金槌ひとつで割れる。割れたら、あの子は、新しいのを誂えさせるじゃろう』
窓硝子の中の自分と、しばらく、目を合わせていた。
「……割れなきゃいけないのは、部屋の鏡じゃないんですね」
『うむ。あの子の中の鏡じゃ』
「それは、痛いことですか」
『痛いことじゃ。鏡が割れるとな、初めて、自分の本当の大きさが見える。あの子が思っておるより、ずっと小さい』
「……怖いです」
『そうじゃのう。怖いことじゃ。割れたあとで、戸を開けるかどうかは、あの子が決める。わしは、戸口で待っておる』
窓硝子に、指を当てる。冷たい。
朝、礼拝堂で聞いたのと、同じだ。
神さまは、押し入らない。壊れたところの前で、待っている。開けてもらえるまで。
「そのときは、私も、隣にいてもいいですか。殿下の」
窓の外で、雪が、音もなく降り積もっていく。
それから、神さまの声が、ほんの少しだけ、震えた気がした。
『――あの子にも、妹が、おったのじゃのう』
百合の香りが、ふわりと濃くなる。
『……隣におるかどうかは、お主が決めてよい。わしが頼むことではない』




