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お飾り聖女と氷の辺境伯と、名前を忘れない神さま〜推しの隣に、座りたい〜  作者: 真白のあ
第三章 高い塔と、低い戸口

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第24話 高い塔には、戸がない(一)



 礼拝堂の鍵は、思っていたよりも軽い音で回った。


 ずっと錆びついていたはずの錠前から、油の匂いがした。昨夜から今朝までのあいだに、誰かが差したのだ。


 誰なのかは、訊かなかった。訊いても、眼鏡の奥で目を逸らされるだけだと思ったから。


 かちり、と外れる。扉を押すと、蝶番が長い悲鳴を上げて、それから、朝の光が堂内に流れこんだ。


「おはようございます」


 誰もいない長椅子に、頭を下げる。


 扉から入れる。それだけで、手桶が昨日より軽い。雑巾を抱えて、今日も灰色の石の床にかがみこむ。


 グラウは扉の内側に寝そべって、雑巾の動きを、片目で追っている。今朝も、何度か、ずれてもらった。


『精が出るのう』

「はい。ここの床は、磨くと、石の色がちゃんと戻ってくるんです。それから、ここは、大聖堂の回廊より、ずっと磨きがいがあります」

『ほう。なぜじゃ』

「大聖堂の床は、誰かに叱られないために磨いていました。ここは、そうじゃないので」


 祭壇の奥の丸窓から、朝の光が、白い翼の形になって、床に落ちていた。若い葉をくわえた鳩。雪が落ちてから、この光は毎朝ここに差す。


 雑巾を滑らせながら、ずっと訊きたかったことを口にした。


「神さま。オットーさんの隣にも、閣下の隣にも、いらっしゃったんですよね」

『うむ』

「それなら。……ジュリアン殿下の隣にも、いらっしゃるんですか」


 手桶の縁に雑巾を押しつける、水の音だけが、礼拝堂に響く。


『――のう、セラ。王都の回廊の、いちばん奥の壁を覚えておるかね』


 覚えている。天井まで届く、大きな壁画。初代の聖女が雲の上に立ち、足元にひれ伏す民を見下ろしている絵。金箔が、朝日を受けると目がくらむほど光った。


 その壁画の下の床を、十年、磨いた。絵そのものは、一度も見上げたことがない。首が痛くなるほど、高いところにあったから。


『あの絵の、民の中にな、わしもおったのじゃよ。いちばん端に、小さく。子どもの隣に、しゃがんでおる爺じゃ』


 雑巾が止まる。


『二百年前の大司祭が、塗りつぶした。神が民と同じ高さにおるのは、見苦しい、と言うてな。上から、金箔を貼った』


 あの金色。


 毎朝、目がくらむと思っていた、あの光。その下に、しゃがんだ神さまが、塗りこめられていた。


「……どうして」

『わしが低いところにおっては、困る者がおるからじゃ。神が高ければ高いほど、神に近い者が、偉うなる』


 色硝子を通った光が、床の上で、静かに揺れている。


「それでも、殿下の戸口にも、立っていらっしゃる」

『うむ。ずっとな』

「なのに、届かないんですか」

『届かんのではない。あの子はな、自分の像を山ほど積んで、そのてっぺんに座っておる。金の像、銀の像、大きな鏡』


 想像してみる。どちらを向いても、立派な服を着た自分が立っている部屋。その山の上に、ひとりで座っている人。


『高いところからはな、床が見えん。戸も見えん。膝をつく場所が、もう、残っておらん』


 膝の下の、灰色の石を見る。ここには、何もない。磨いた床が、あるだけ。


「戸は、どこに」

『いちばん低いところにある。はじめから、誰にでもな。わしは、その外に、しゃがんでおる』


 ……壁画と同じだ。


 子どもの隣に、しゃがんでいた爺。金箔で見えなくなっても、ずっとそこにいた。殿下の戸の外にも、同じ姿で。


 雑巾を、手桶の縁に押しあてる。左の手のひらで、上から、ゆっくり。ぽたり、ぽたりと、水が落ちていく。落ちきるまで、神さまは黙っていらした。


『像ばかり積み上げた塔はな、いつか、自分の重さで崩れる。落ちた先が、床じゃ。そこに、戸がある』

「……落ちて、はじめて」

『うむ。それでも開けん者は、おる。開けるのは、中におる者じゃからのう』


 顔を上げる。


 扉が、開いている。朝の光が、床まで届いている。


 昨日、私は窓から入った。今日は、扉から。


 九年、戸口の隙間風のところで凍えていた人が、自分の手で、鍵を開けてくれたから。


『戸口はな、冷えるのじゃ。石も硬い。それでも、わしは、そこを動かん』


 膝の下の石が、冷たい。十年、床を磨いてきたから、知っている。硬いところに体を預けるのは、痛い。


「痛いのに、ですか」

『痛いのに、じゃ。あれも、わしの子じゃからのう』


 もう一度、冷たい石の上に座りなおす。


 雑巾を、床に滑らせる。


    *


 その日の昼過ぎ、城門で角笛が鳴った。


 哨戒隊の帰還を告げる三度の音ではなかった。長く、一度だけ。客人の到来を告げる音だった。


 鳩が籠っていたのは、これだったのだ。


「王都の旗だ! それから――帝国の、双頭の鷲の旗も!」


 門番のカールさんの声が、中庭に響き渡った。


 厨房の窓から、その一行を見る。


 金糸で飾られた白い馬車が二台。それを取り囲む、きらびやかな鎧の騎士が二十騎。北の雪の中で、その一団だけが、まるで別の季節から切り取られてきたように、ぎらぎらと光っていた。雪は、金を映さない。ただ、白いまま、黙っている。


 先頭の馬車から降りてきたのは、紫の毛皮をまとった、ふくよかな中年の男だった。


 指という指に、宝石の指輪が光っている。首には、拳ほどもある金の鎖。そして、その腕には、金の像が、大切そうに抱えられていた。


 七つの子どもほどの背丈の、人の形をした像だった。冠をかぶり、右手を高く掲げている。中は空らしい。それでも、金を貼った重みで、侯爵の腕がわずかに震えていた。


「――帝国の勅使、ダリウス・フォン・グラナート侯爵である」


 侯爵は、雪の中に立つ城の兵士たちを、値踏みするように見渡した。


「アイゼンベルク辺境伯に、皇帝陛下の御尊像の前で、膝を折っていただきに参った」


 侯爵は、像を抱えたまま、振り返りもせずに、顎で後ろをしゃくる。


「おい。像を運べ」


 侯爵の後ろから、若い従者が一人、進み出た。


 紫の仕着せを着た、二十歳になるかならないかの男だ。袖だけが、少し長すぎる。日に焼けた顔と、労働で節くれだった手は、この城の兵士たちとよく似ている。


 侯爵は、一度も、その人の顔を見なかった。


 像には、絹が二重に巻かれた。その上から、侯爵自身の貂の毛皮。金の冠に、雪がひとひらも落ちないように。


 従者の手には、手袋がない。


「傷ひとつつけてみろ。お前の一生を売っても、陛下の御尊像の、小指の先にも足りんぞ」


 従者は、黙って像を抱えた。重そうだ。腕の筋が浮いている。素手の指先が、毛皮の下で、赤く、それから白くなっていく。


 名前で呼ばれない人を、私は、もうひとり知っている。


 そして二台目の馬車から、見慣れた金糸の長靴が雪の上に降り立つ。


 ジュリアン殿下。


 右の三本目のあばらが、きしり、と鳴った。


 もう治りかけているはずの場所が、靴の音ひとつで、思い出す。


(あ)


 厨房の窓の陰で、思わず両手で口を押さえる。


(原作の六巻で、帝国に寝返ろうとして、逆に帝国に捨てられる小物枠の殿下が。本物だ。雪の中でも金糸の靴、解釈一致……!)

『セラや。今はやめておけ』

(すみません神さま。長年の習慣で)


「ちっ、なんて寒さだ。人の住む場所じゃねえな。おい、誰か毛皮をもう一枚持ってこい。俺の馬車の中だ。自分で取りに行けってか?」


 言いながら、殿下は、雪で濡れた外套を脱いで、そばにいた廐番のヨナスの顔へ放った。


「乾かしとけ。皺ひとつでもつけたら、弁償な。お前の一年分の給金でも、足りねえけど」


 ヨナスは、顔にかかった外套を、黙って両手で受け取った。


 殿下は大げさに身震いをしてから、中庭の兵士たちを見回す。


「騎士のひとりも出迎えに来ねえのか。さすが、北の田舎だな」


 北の城に、騎士と呼べる人は、ほとんどいない。もともと少なかった家臣も、九年前の冬、閣下が城の蓄えを七つの村に分けたとき、ほとんどが王都へ去ったのだと、マルタさんから聞いた。今、閣下のそばにいる貴族の生まれは、ギルバートさまだけだ。


 中庭に並んでいるのは、炭焼きや猟師の息子たち。村人と同じ手をした兵士たちだ。



「おい、お前ら。俺の妹は、まだ生きてるか? 三ヶ月で追い出す約束なんだ。ちゃんと冷遇してくれてるんだろうな。飯は出してないだろうな? 床に這わせてるか?」


 中庭の兵士たちは、誰も答えない。


 ただ、いちばん前に立っていたオットーさんが、無言で帽子を深くかぶり直しただけ。


 その隣で、まだ左肩に包帯を巻いたルッツが、拳を握りしめて一歩前に出ようとする。オットーさんの手が、その肩を静かに押さえた。


「ルッツ。腕が治ってからにしろ」

「治ったら、いいんですか」

「治っても、駄目だ。閣下が決める」


 ルッツは、それでも拳を握ったまま、中庭の石畳を睨んでいる。


 私は、厨房の窓を離れて、鍋のほうへ戻った。


    *


 日が落ちるまで、城の中は、妙に静かだった。誰も大きな声を出さない。廊下ですれ違う兵士が、いつもより深く帽子を下げる。マルタさんは鍋をかき回しながら、一度も口を開かなかった。


 そして、夕食の時間。


 大広間の献立は、閣下の指示で、いつも通りだった。


 大麦と蕪のスープ。黒パン。塩漬けの魚が、一人に一切れ。


 長い樫のテーブルに、閣下と、ギルバートさま。その向かいに、グラナート侯爵とジュリアン殿下。そして、侯爵の隣に、金の像。


 侯爵は、自分の席の隣に、像のための椅子をひとつ、わざわざ運ばせていた。七つの子どもほどの像が、椅子の上に、きちんと据えられている。像の前にも、スープの椀が置かれている。


 像の後ろには、昼間の従者が立っていた。像の肩には、貂の毛皮。従者の肩には、何もない。大広間の扉が開くたびに、北の風が、その薄い仕着せの背中を撫でていく。


「皇帝陛下は、常にわれらと共にあらせられる。この像を通じて、すべてをご覧になっておられるのだ」


 侯爵は椅子から立ち上がると、両手を胸に当てて、像に向かって深々と頭を下げた。額が、卓につくほどに。


「皇帝陛下。北の辺地にて、勅使グラナート、本日も御尊顔を拝し奉ります」


 それから、ゆっくりと顔を上げて、閣下を見た。閣下は、頭を下げていない。


「アイゼンベルク卿。陛下の御前で、頭を下げぬのか」


「私が頭を下げるのは、生きている者にだけだ」


 侯爵の細い目が、さらに細くなる。それから、ふん、と鼻で笑った。哀れむような笑い。


「北では、陛下の御威光も届かぬと見える。わしはな、三十年、毎朝、この御尊像に額をつけてきた。それゆえ、陛下はわしを勅使に選ばれた」


 侯爵は、指輪だらけの手で、像の台座を撫でる。


「頭を下げる者だけが、陛下のおそばに置かれる。下げぬ者は、いずれ、下げさせられる」


 侯爵は満足そうに、絹の布で、像の金の頬を拭いた。自分の頬を撫でるみたいな手つきだった。


 像の前の椀からは、湯気が立っている。誰も、それを飲まない。湯気はやがて消えて、スープは、ただ冷えていった。


 像の後ろで、従者の喉が、一度だけ、こくりと動く。


 あのスープ、誰かが飲めば、温まるのに。


 十年、残り物のパンで生きてきた私には、それが、いちばん、わからなかった。


 侯爵は席に戻って、自分のスープの椀を持ち上げ、口をつける。


 そして、顔をしかめる。


「これは、家畜の餌かね」


 椀がテーブルの上に乱暴に置かれた。


「アイゼンベルク卿。わしは皇帝陛下の勅使として来た。それをこのような、麦と草の煮汁で迎えるとは。北の田舎者は、礼儀というものを知らぬのか」


 指輪の手が、卓を、こつこつと叩く。


「帝都では、勅使の卓には、最低でも七皿。冷たい前菜が三つ、温かい肉が二つ、魚と、それから砂糖菓子だ」


 それから、振り向きもせずに、後ろへ。


「おい。陛下の椀に、蓋をしておけ。冷めては、御無礼だ」


 従者が、湯気の消えた椀に、そっと小皿をかぶせる。もう、とうに冷えているのに。


 閣下は自分の椀に匙を入れたまま、顔を上げない。


「この城の者は、皆、これを食べている」


 低い声。


「兵も、廐番も、私も。この冬、麓の村では、これすら口にできない者がいる」

「ふん、だから何だと言うのだ。われらは客だぞ」


 閣下は、初めて顔を上げた。


「では、明日、村へ案内しよう。侯爵が、ご自分の目で、何が足りていないのかご覧になれるように。馬で半日だ。雪はあるが、道はある」


 侯爵の頬が、ぴくりと動く。


「考えておこう」


 ジュリアン殿下は、そのやりとりのあいだ、ずっとテーブルの向こうを見ていた。


 私を、だ。


 私は、マルタさんと一緒に、給仕の盆を持ってテーブルの脇に立っている。


 着ているのは、修道服ではない。洗濯場のエルザさんが貸してくれた、女中の灰色の仕着せだ。「給仕は、この城の者がする」と、閣下が決めたから。


「――おい」


 ジュリアン殿下が、椅子を引いて立ち上がった。


「おい、セラ。お前、まだ床でも磨いてんのか」


 殿下は、私の前まで歩いてきて、盆の上のスープの椀を、ひとつ持ち上げる。


「王女が女中の真似事か。まあ、お似合いだがな。北の田舎じゃ、お前みたいなのでも、女中は務まるらしい」


 そして、椀を、ゆっくりと傾けた。


 熱いスープが、私の仕着せの胸から腹へ、だらだらと流れ落ちていく。大麦の粒が、灰色の布に貼りついて、床の上に、ぱらぱらと落ちていく。


「あーあ、こぼれちまった。もったいねえな、麦と草の煮汁が」


 殿下は、笑いながら、空の椀を床に落とした。陶器の砕ける音が、大広間に響いた。


「ほら、拾えよ。一粒残らず。いつもみたいにさ」


 大広間が、静まり返る。


 ギルバートさまの手が、テーブルの下で、何かをつかむように動いたのが見えた。閣下の椅子が、ぎ、と軋んだ。


 私は、そのどちらよりも先に、床に膝をついていた。


「……はい」


 熱さは、ほとんどない。神さまが、いつの間にか、胸元に薄い風を吹かせてくださっている。


 床に散った大麦を、指先で一粒ずつ、割れた椀のかけらの中へ集める。


(十点満点で――)


 点を、つけなかった。


 今夜は、審判でいなくていい。拾う人でいい。


 慣れたことだ。ずっと、こうしてきた。拾えと言われたら、拾う。下を向いて、黙って。それがいちばん早く終わる。


「まあ、そういうことだ、侯爵」


 殿下は、席へ戻りながら、愉快そうに言った。


「王都で、あいつはああいう扱いだったんだ。氷竜辺境伯が、こんな出来損ないを三ヶ月で放り出すのは当然のことでね。だから、婚姻拒否は『王女への侮辱』ってことに――」


 殿下の言葉が、途切れた。


 私の隣に、誰かが膝をついたからだ。


 トビアスだ。


 まだ包帯の取れない指で、床の大麦を一粒拾う。不器用な手つきで、椀のかけらの中へ落とす。


「トビアス、手が」

「聖女さまが治してくれた手です」


 小さな声だった。


「聖女さまのために使わなきゃ、意味がないです」


 その隣に、オットーさんが膝をつく。黙って、大きな手で大麦を集め始める。


 それからマルタさんが。給仕の盆をテーブルに置いて、皺だらけの膝を、よいしょ、と床に下ろす。


「四十年、あたしの厨房から出た麦だ。あたしが拾わないでどうする」


 その隣に、包帯の肩をかばいながら、ルッツが。


 壁際に控えていた兵士たちが、ひとり、またひとりと、槍を壁に立てかけて、床に下りる。


 門番のカールさん。廐番のヨナス。鍛冶場のブルーノさん。洗濯場のエルザさんまで、扉の陰から入ってきて、床にかがむ。


 大広間の石の床で、二十人ばかりの人が、黙々と大麦を一粒ずつ拾っている。


 帳面に書いた名前が、一人ずつ、床に降りてくる。


 指先が、震えた。麦が一粒、かけらの縁から、ころりとこぼれる。隣から伸びてきたトビアスの指が、それを拾ってくれた。


『セラや』

(はい)

『今、この広間で、二十の膝が、床についたぞ。像も、鏡も、積んでおらん者らの膝じゃ』


 誰も殿下を見ない。誰も侯爵を見ない。


 ただ、床の上の小さな麦の粒だけを見ている。


 そして扉のところで、灰色の犬が低く、長く唸っている。ジュリアン殿下に向かって。このごろ、誰にも唸らなくなっていた犬が。


「な、なんだよ、お前ら」


 殿下の声が、上擦った。


「なんのつもりだ! そいつは出来損ないの、お飾りの――」

「――殿下」


 低い声が、テーブルの向こうから落ちる。


 閣下が、椅子を引いて、立ち上がっていた。


 立ち上がって、テーブルを回り、そして、殿下の前を、まるでそこに誰もいないかのように通り過ぎて――。


 私の隣に、膝をつく。


 大広間が、息を止めた。


 麦をつまんだまま、私の指が、動かなくなる。


『……九年』


 とても小さな声だった。


『あの子が誰かの隣に膝をついたのは、あの冬の、霜降り村の小屋以来じゃ。わしは今、あの子の隣と、お主の隣と、両方におる。狭いのう』


 閣下は、黒い外套の裾が床のスープに浸るのも構わず、長い指で大麦を一粒つまみ上げる。


 それを、私が持っている椀のかけらの中へ、そっと落とす。


 閣下の指が、私の指に一瞬触れた。


「熱いか」


 私にだけ聞こえるくらいの声。


「いいえ」

「嘘だな」

「……少しだけ」


 閣下はそれ以上、何も言わない。けれど次の一粒を拾う手が、私の手より先に、いちばん熱いスープの溜まりのほうへ伸びていく。


「この城では」


 殿下を見上げもせずに、閣下は言う。


「食べ物を床にこぼした者が、拾う。拾えない者は、拾う者の邪魔をせずに、席に座っていろ」


 殿下の顔が赤くなり、それから白くなった。


「き、貴様、王家の人間に向かって!」

「アイゼンベルクの掟だ。王家の人間にも、帝国の勅使にも、変わらない」


 閣下は、もう一粒、拾った。


「――それから、殿下。貴殿は、さっき言ったな。『あいつは王都で、ああいう扱いだった』と」


 閣下の声は、静かなままだ。


「覚えておく。この北で王女がどう扱われているか、いずれ皇帝にも、王都の国王にも、正確に伝わる。貴殿自身の言葉ごとな」


 ジュリアン殿下は、口を開けたまま、何も言えなかった。


 その目が、床の上の二十の背中を見る。それから、自分のまわりを見る。金糸の長靴。空いた椅子。誰も膝をつかない、自分の足もと。


 ほんの一瞬だけ、迷子のような顔をした。


 グラナート侯爵は、金の像の隣で、ゆっくりと、手の中の指輪を回している。その細い目が、閣下を、それから私を、値踏みするように眺めている。燭台の火が落ちた私の髪のあたりで、一度だけ、止まる。銀貨の重さを量る目だった。


 蓋をされた像の前の椀だけが、誰にも触れられずに、冷えたまま、そこにあった。


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