第23話 神さまは、名前をひとつも忘れない(四)
雪の上の足跡が、兵舎の角で見えなくなる。
礼拝堂の中に戻って、雑巾と手桶を片づけた。それから窓によじ登ろうとして、気づく。
入るときは、下りるだけでよかった。出るときは、胸の高さより少し上の窓枠まで、よじ登らなければならない。
「……あの」
窓の外に、まだ一人、残っていた。
ギルバートさまだ。眼鏡を掛け直して、いつもの隙のない顔で立っている。
「ギルバートさま。まだ、いらしたんですか」
「洗濯場の点検の帰りです」
洗濯場は、城の反対側だ。
「その窓は、掛け金が壊れている。貴女が無理によじ登れば、窓枠ごと崩れる」
ギルバートさまは、黒い革手袋を外した。素手を、窓の中へ差し入れる。
「……手を」
手桶と雑巾を先に外へ出してから、左手で、その手を取った。
冷たい手だった。雪の中に、長く立っていた人の手。指は長くて、思っていたより硬い。剣を握る人の手だ。九年、閣下の後ろに立ってきた人の。
その手が、一度、止まった。眼鏡の奥の目が、私の右手を見ている。胸の前で、庇うように丸めたままの、腫れた手を。
「手は、使わないでください。足を、長椅子の背に。……そうです。窓枠には、体重をかけないように」
ギルバートさまは、私の左手を離した。代わりに、私の両方の二の腕を、しっかりと掴む。
「私が引きます」
引かれる。思っていたより、強く。体が浮いて、窓枠をほとんど擦らずに、外の雪の上に下りた。右手は、一度も、どこにも触れなかった。
下りてからも、ギルバートさまは、腕を離さない。
一呼吸。二呼吸。
二人の吐く息が、白い。
「ギルバートさま」
「……壊れそうな窓ですので」
それだけ言って、手を離す。外した革手袋を、指の一本一本まで、几帳面にはめ直していく。
「今度、窓から出入りするときは、私をお呼びください。窓のためです。貴女のためではなく」
「はい。窓のために、お呼びします」
ギルバートさまは、眼鏡を押し上げた。
『あの若者、しばらく、手を離さなんだのう』
(神さま、見ていたんですか)
『窓のためじゃろう』
その夜、スープの盆を執務室へ運ぶと、ギルバートさまは毒見をしなかった。
「もう、必要ありません」
それだけ言って、扉を開けてくれる。私と、目を合わせずに。
閣下は、いつものように机に向かっていた。私もいつものように、机の端に盆を置く。グラウが、閣下の膝に頭を載せる。
「おやすみなさいませ、閣下」
扉に手をかけたとき、背中に、低い声がかかった。
「――セラ」
名前だけだった。「貴様」でも、「セラ嬢」でも、「お前」でもなく。
「はい」
振り返ると、閣下は立ち上がっていた。
机を回って、こちらへ歩いてくる。三歩。四歩。私の前で、止まる。
近い。
暖炉の火明かりが、ほどけた灰紫の髪の先を、透かしている。閣下の目が、そこで一瞬、止まった。……煤でも、ついていただろうか。
薪一本の暖炉の火が、銀灰色の髪の端を赤く縁取っている。白いシャツの襟元から、喉の傷跡が、ほんの少しだけ見えた。
閣下は、胴着の内側から、何かを取り出した。
古びた、鉄の鍵。
「礼拝堂の鍵だ」
ほとんど聞き取れないくらいの声だった。
「窓から出入りされては、窓が壊れる。ギルバートが、そう言っていた」
受け取ろうと手を出す。閣下は、その手を見た。
右手。腫れの引いてきた手の甲。薬草の匂い。三本の白い傷。
鍵を持った手が、止まる。
それから閣下は、鍵を置く代わりに、私の右手を、自分の左手で、下からそっと持ち上げた。
大きな手だ。傷だらけで、硬くて、思っていたより、温かい。
その手を、燭台の火のほうへ、少しだけ傾ける。
見ている。
腫れの残った手の甲を。三本の白い傷を。十年分のあかぎれと、指の付け根の硬いたこを。
閣下の顎の線が、少しずつ硬くなっていく。
憐れんでいる顔ではない。この手をこうした誰かを、許していない顔だ。
閣下の親指が、いちばん深い傷の上を、一度だけ、ゆっくりとなぞった。
その指が、少しだけ、震えていた。
「塗っているな」
「はい。毎晩」
「……そうか」
それだけ。
私の手のひらに、鍵が置かれる。冷たくて、ずっしりと重くて、胴着の内側で温められていた鍵。
鍵を置いたあとも、閣下の手は、一瞬、私の手の下から離れなかった。
一瞬。それだけ。
「ありがとうございます、閣下」
答えはない。
手が離れる。閣下は背を向けて、机に戻っていく。耳が、首筋まで赤い。
けれど、机の上のスープの椀に、閣下の手が今夜はためらわずに伸びていくのを、扉が閉まる前に、ちゃんと見ていた。
螺旋階段の途中で、立ち止まる。
鍵を握ったまま、右手を胸に当てる。
手の甲の、傷の上。親指がなぞった場所が、まだ熱い。
(神さま)
『うむ』
(今の、……)
『さあのう』
神さまは、わざとらしく、とぼけた。
『わしは、本人が気づく前には、言わん。お主が、じゃぞ、セラ。あの子ではない』
西棟の部屋に戻って、帳面を開いた。
余白に、ひとつだけ、空けておいた場所がある。
炭のかけらで、そこに書く。
リーネ。七歳。霜降り村。白い百合と、木彫りの小鳥が好きだった。最後の冬、百合の代わりに、小鳥を毎晩握っていた子。
とうちゃんに、くちばしを丸く削ってもらった子。
書き終えて、しばらく、炭を置けなかった。
窓辺に膝をついて、手を組む。窓枠の外側で、山鳩が二羽、丸くなっている。
「神さま」
『うむ』
「今日、オットーさんの隣に、神さまが膝をついていらっしゃいましたね。見えなかったけれど、わかりました」
百合の香りが、ふわりと部屋に満ちる。
神さまは、それについては何もおっしゃらない。
窓の外で、山鳩が、羽を一度ふくらませる。
『――セラや。お主の帳面の名前な。わしも、ひとつ残らず、知っておるよ。リーネの名も、一日も、忘れたことはない』
目を閉じたまま、小さく笑った。
「知っています、神さま」
雪は、もう止んでいる。雲の切れた北の夜空に、星がひとつ、ふたつと、数えきれないほど灯っていく。冷えきった空気の中で、星は瞬かない。針で突いた穴から、向こうの光が漏れているみたいに、じっと、そこにある。
そのひとつひとつにも、きっと、名前がある。
帳面の中に、リーネ。空の上に、数えきれない星。
どれも、忘れられていない。
(神さま。星にも、名前はあるんですか)
『あるよ。全部、わしがつけた。グラウの名をつけた男より、少しは、上手につけたつもりじゃ』
右手の甲には、まだ、あの親指の温度が残っている。
期限の三ヶ月まで、あと七十六日。
礼拝堂の鍵は、今夜から、麻袋の底にある。絹の布が出ていった袋に、鍵が入った。宝物は、五つのまま。
翌朝、厨房の窓枠に、山鳩は来なかった。
麦をひとつまみ置いて、しばらく待つ。東の塔の巣のほうを見ても、二羽の影はない。吹雪の前は、鳩は巣から出ない。けれど空は、吹雪の来ない、夜明け前の色をしていた。
「今日は、来ないんですね」
『鳩はな、吹雪の前にも巣に籠るが、知らん客が来る朝にも籠る。……どちらかは、昼までにわかる』
1日にお一人ずつぐらい読んでくれる方が増えている様子です。お名前を知らないけれど、お1人ずつ、見えないお名前が、丁寧に書き足されているような気がして、うれしい気持ちになります。ありがとうございます。




