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お飾り聖女と氷の辺境伯と、名前を忘れない神さま〜推しの隣に、座りたい〜  作者: 真白のあ
第二章 塩が足りん

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お飾り聖女の手は、あたたかい (四)

 医務室は、城の一階の奥にあった。


 寝台が十ばかり並んでいるだけの、石造りの細長い部屋だ。薬草の匂いはするのに、棚の薬瓶は、ほとんどが空だった。


「お医者さまは……治療師さまは、いらっしゃらないんですか」


 湯の入った桶を運びながら尋ねると、若い兵士が吐き捨てるように答えた。


「いねえよ。王都の教会は、こんな北の果てに聖職者なんか寄越さねえ。手を置いて傷を癒やす按手(あんしゅ)ができる奴なんて、この城にはひとりもいないんだ。薬草も、もう使い切った」


 ルッツは、三つ目の寝台にいた。左の肩から胸にかけて、爪の跡が三本、深く走っている。血はもう止まりかけていたけれど、顔は蝋燭の蝋みたいに白かった。


「王女さま」


 私を見ると、ルッツは無理に笑おうとした。


「すみません。明日の朝、水、汲めないかも」


「いいんです。ニコさんに頼みますから。動かないでください」


 マルタさんが煮沸してくれた布で、爪の跡を洗っていく。ルッツは歯を食いしばって、声を出さなかった。けれど、私が布を替えようと手を離すと、その手を探すように、指が動いた。


「手、握っててもらっても、いいですか。ちょっとだけ」


「はい」


 ルッツの手を握った。指は冷たくて、小刻みに震えている。


 しばらく、そうしていた。


 震えが、少しずつ間遠になっていく。食いしばっていた顎から力が抜けて、浅くて速かった息が、ひとつ、ふたつと深くなっていった。


「王女さまの手、あったけえ」


 それだけ言って、ルッツは目を閉じた。握っていた指から、すうっと力がほどけた。眠ったのだ。


 私はほどけた手を、そっと毛布の上に戻した。


「代わります」


 いつの間にか、ニコが隣に来ていた。そばかすの顔が、泣きそうに歪んでいる。


「俺が見てます。王女さまは、奥を。……トビアスが」


 いちばん奥の寝台に、少年兵が横たえられていた。


 吹雪の中で、何時間も剣を握りしめていたのだろう。両手が、指先から手首まで、蝋のように白く固くなっていた。


 凍傷だった。


「トビアス、しっかりしろ! 手、動かせるか!」


 オットーさんが、少年兵の両手を自分の脇の下に挟んで、温めようとしていた。雪国の者なら誰でも知っているやり方だ。けれど、オットーさん自身も吹雪の中から戻ったばかりで、外套の肩には、まだ雪が凍りついていた。


 少年兵は、うっすらと目を開けて、震える唇で言った。


「おじ、さん……ゆび……かんじ、ない……」


 オットーさんの顔が、くしゃりと歪んだ。


「このままじゃ、指を落とすことになる。まだ十五なんだぞ、こいつは」


 オットーさんは甥の手を抱えこんだまま、歯を食いしばった。


「駄目だ。俺の体が冷えきってて、温めてやれねえ。九年前は、娘だった。今度は、甥っ子か。……もう誰も、雪に持っていかれたくねえんだよ」


 灰色の犬が、寝台の脇にいた。


 いつの間に来たのか、グラウは少年兵の寝台の足元に、体を押しつけるようにして横になっていた。毛布から出た少年兵の足に、自分の腹を、ぴったりとつけて。


「グラウ」


 オットーさんが、犬を見た。


「お前、覚えてるのか。あの冬も、そうやって閣下の足を温めてたな。あの小屋で」


 犬は動かない。ただ、少年兵の足に腹をつけて、じっとしていた。


 私は、寝台の脇に膝をついた。


 そして、膝をついたまま、動けなくなった。


 私には、何もできない。七歳のあの日、測定器の針は、ぴくりとも動かなかった。指先に小さな灯りをともすことさえ、できなかった。


 按手も、奇跡も、私には何ひとつ起こせない。それが、お飾りの聖女だ。


(神さま)


 心の中で呼んだ。呼ぶ声まで、震えていた。


(神さま、お願いです。この子の手を、治してあげてください。私には、何もできないんです。何も――)


 百合の香りは、すぐにはしない。


 医務室の騒がしさの中で、私はぎゅっと目をつぶった。


『――セラや』


 頭の真ん中に、とても静かな声がした。いつもの、のんびりとした声ではない。けれど、慌てた声でもなかった。


『奇跡は、光ると思うか』


(光ります。本には、そう書いてありました)


『光らん。音も鳴らん』


 騒がしいはずの医務室の音が、遠くなっていく。


『お主は十年、あの冷たい床を、その手で磨いてきたじゃろう。冷たい水に浸して、砂利で裂いて、それでも毎朝、磨いてきた。その手にな、あの子が自分にしか塗らなんだ膏薬が、塗ってある』


 私は、自分の手を見下ろした。


 あかぎれだらけの手。まだ腫れの引かない、傷だらけの右手。薬草の匂いのする手。


『さっき、あの若いのの手を、握っておったじゃろう』


 ルッツのことだ。


『あれは、眠っただけではないぞ』


 私は目を開けて、振り返った。


 三つ目の寝台で、ルッツが眠っている。その枕元に、ニコが座っている。


 蝋のように白かったルッツの頬に、ほんのりと、血の色が戻っている。


『その手を、この子にも、貸してやってはくれんかのう』


 それから神さまは、いつもよりずっと低い声で、ひとことだけおっしゃった。


『今夜は、お主の手が、わしの手じゃ』


 私は、オットーさんの腕に、そっと手を置いた。


「代わります。私、さっきまで竈の前にいたので、手が温かいんです」


 オットーさんが、私を見る。それから何も言わずに、甥の手を、私のほうへ差し出した。


 少年兵の白く固まった両手を、自分の両手で、そっと包みこんだ。


 氷を握ったような冷たさだった。腫れた右手の、ずきずきと脈打つ痛みが、その冷たさに押されて遠のいていく。代わりに、手のひらの温かさが、みるみる奪われていった。


「王女さま、そいつの手は氷みてえで。あんたの手まで――」


「大丈夫です」


 指先が、もう痺れはじめていた。それでも、離さなかった。


 少年兵の手を、胸元に引き寄せる。修道服の上から、自分の心臓のあたりに、そっと当てた。


 そして、目を閉じて、祈った。


 言葉は、ほとんど浮かばない。ただ、大聖堂の床を磨いていた十年分の朝のことを、思い出していた。冷たい水。痺れる指先。それでも、磨けば磨いただけ、ちゃんと光ってくれた白い大理石。


 誰も見ていなかった。誰も褒めてくれなかった。それでも、毎朝。


 ――どうか、この子の手が、また温かくなりますように。


 光は、何も出なかった。音も、何も鳴らなかった。


 ただ、胸に当てた小さな手のいちばん冷たいところが、私の心臓の音を、ひとつずつ吸いこんでいくのがわかった。


 どくん。どくん。


 私の手のひらの奥から、春の陽だまりのような温もりが、少しずつ、少しずつ、少年兵の手に染みこんでいく。


 どれくらい、そうしていただろう。


「……あ」


 少年兵が、小さな声を上げた。


「いた、い。ゆび、いたい……」


 オットーさんが、弾かれたように顔を上げる。


「痛い? トビアス、痛いのか」


「うん。いたい。じんじん、する」


 私は、そっと手を開いた。


 蝋のように白かった少年兵の指先に、薄い桃色が、ほんのりと戻りはじめている。


 オットーさんは口を開けたまま、しばらく、その指を見つめていた。


 それから、節くれだった両手で、甥の手を、私の手ごと包みこんだ。


「痛いってのは、生きてるってことだ」


 その声が、途中で崩れた。


「ちくしょう。……よかった。よかった」


 凍傷の痕のある頬を、涙がまっすぐに落ちていった。あの冬に流しそびれた分まで、落ちていくように見える。


 少年兵が、ぼんやりとした目で、私を見上げた。


「せいじょ、さま?」


「いいえ。私は、ただの床磨きです」


 少年兵の額にかかった髪を、そっと払ってあげる。


「痛いのは、治ろうとしているしるしですよ。よく頑張りましたね。足は、グラウが温めてくれています。もう少し、そのままでいてね」


 少年兵は少しだけ笑って、それから、すうっと眠りに落ちた。


 足元の犬が、尻尾を一度、寝台の脚に打った。


『今、お主が「床磨きです」と言うたとき、わしは、少しだけ、違うと思うた。……それは、お主が自分で言い直す日まで、取っておくとしよう』


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