第21話 神さまは、名前をひとつも忘れない(二)
「オットーさんの行、読んでもいいですか」
医務室で、トビアスの指に包帯を巻き直しているときだった。寝台の脇に座っているオットーさんに、帳面を向ける。
毎朝、同じ粥の輪で椀を持っているのに、この人の行だけは、まだ本人に見せていなかった。
書いたとおりに、読み上げる。
「オットー。厨房の、いちばん端の席。丸椅子を置いてくれた人。乾いた薪を、何も言わずに運んでくれる人」
読み上げると、オットーさんは、凍傷の痕のある頬を少しだけ動かした。
「……家の名が、抜けてます」
「家の名」
「グラーツ。オットー・グラーツ」
そういえば、誰からも聞いたことがない。城ではみんな、ただ「オットーさん」と呼んでいる。
「書いといてください。家の名も」
帳面の、オットーの横に、グラーツと足す。
オットーさんはその字を、指でなぞるように見ていた。それから、ごつごつした手で、眠っているトビアスの頭をくしゃりと撫でる。
「こいつは、俺の甥っ子でしてね」
窓の外を見たまま、ぽつりと。
「礼を言わなきゃならんのは、俺のほうです」
その手が、トビアスの頭から、なかなか離れなかった。
◆ 幕間 老兵オットーの薪
あの夜、厨房の入口で足を止めたのは、ほんの気まぐれだった。
少なくとも、オットー・グラーツは、自分にそう言い聞かせている。
王都から来た生贄の姫が、閣下の執務室を飛び出して、厨房へ駆けこんだ。警備の兵なら、追わないわけにはいかない。だから追った。それだけのことだ。
なのに、入口から先へ、足が進まなかった。
姫が、竈の前にしゃがみこんでいた。泥だらけの修道服。つぎはぎの袖。灰の下にかすかに残った熾火に、頬をふくらませて、ふう、ふう、と息を吹きかけている。
その足元に、グラウがいた。閣下の部屋の扉の前でしか寝なかった犬が、いちばん大きな、冷たい竈の前で、腹を石につけて寝ている。
ふう、ふう。
小さな息の音が、オットーの耳の奥で、別の声と重なった。
――とうちゃん、見てて。あたしが、つけるから。
九年前の冬。
霜降り村の、炭焼き小屋。
あの子も、ああやって、竈に顔を近づけて、頬をまんまるにして火を吹いていた。
霜降り村は、城から北へ、馬なら半日の、谷の奥にある。
炭を焼いて、売って、冬を越す。オットーの家は、ずっとそうしてきた。女房のアンナ。七つになる娘のリーネ。生まれたばかりの息子。奥の部屋には、その秋から足の立たなくなった親父のエーリヒ。
貧しかった。けれど、冬を越せないほどではなかった。
あの年までは。
あの年、夏は来なかった。麦は穂をつけないまま枯れ、九月のうちに雪が降る。炭を売りに行こうにも、峠は十月に閉ざされた。
十二月の、底冷えのする晩。
リーネが、熱を出した。
額に手を当てると、焼けた石のよう。それなのに、あの子は布団の中から笑った。
「とうちゃん、夏になったら、また崖の百合、取りに行こうね」
薪は、まだ四日分あった。
城までは、雪の中を歩いて、行って帰って二日。すぐに出れば、二日分が手元に残る。
オットーは、行かなかった。
小屋に男手がなくなる。アンナは赤子を抱えて寝ついている。それが、理由だった。
本当は、もうひとつある。
城へ薪をもらいに行くのは、この子は死ぬかもしれない、と認めることだ。
認めなければ、まだ、大丈夫な気がした。明日には、熱が下がる。そう思いたかった。
翌朝、熱は下がらない。薪は、三日分。
明後日には下がる、と思った。
下がらない。その晩、アンナも倒れた。
薪は、二日分。
そこでようやく、オットーは戸を開けた。
往復で二日。手元には、もう何も残らない。
――二日、遅れた。
今でも、毎晩そう思う。遅れたのは、吹雪のせいでも、掟のせいでもない。怖くて、四日分を二日分にした。自分のせいだ。
吹雪だった。
顔に当たる雪が、礫のように痛い。足の指の感覚が、途中でなくなる。それでも歩いた。止まったら、もう立てない気がした。
城門を、叩く。
「薪を、分けてくれ。娘が、死にそうなんだ」
門は、開かなかった。
先代の辺境伯さまは、厳しいお方だった。城の蓄えは、城を守る兵のもの。一つの村に分ければ、七つの村すべてに分けねばならない。それが、北の掟だ。
オットーは門の前の雪に、膝をついた。
夜の底で、雪だけが降っていた。門の上の篝火が、ひとつ、またひとつと細くなっていく。
夜明け前。
門が、軋んで開いた。
出てきたのは、門番ではない。
十六ほどの、痩せた少年だった。銀灰色の髪を吹雪に乱して、自分の体より大きな薪の束を、二頭の馬の背にくくりつけている。自分の背にも、もう一束。
後ろには、同じ年頃の、眼鏡をかけた金髪の少年。背に薪を負って、青い顔で、大麦の袋を両腕に抱えている。
足元には、灰色の仔犬。
「――霜降り村の者か」
少年は、雪の中のオットーに手を差し伸べた。
「乗れ。案内しろ」
「若さま! お父上の、お許しは」
城の中から、家令が追ってくる。少年は、振り返りもしなかった。
「私が勝手にやったことにしろ」
吹雪の中を、霜降り村に着いた。
小屋の戸を開ける。
寒い。外と、変わらない。竈の火は、とうに消えていた。
奥の部屋で、親父が冷たくなっていた。着たきりのまま。自分の分の薪を、最後の一本まで、孫娘の竈に回していたのだ。
アンナは赤子を胸に抱いたまま、かろうじて息をしている。
リーネは、竈の前で、小さく丸くなっていた。
小さな手に、細い枝を一本、握りしめている。最後の薪を、自分でくべようとしたのだろう。頬に、灰。火を吹こうとして、ついた灰だ。
――とうちゃん、見てて。あたしが、つけるから。
まだ、息があった。
あの四日分のうちの、最初の二日。父親が、まだ大丈夫だと自分に言い聞かせていたあいだ。この子は、この竈の前で、ひとりで火を守ろうとしていた。
若さまが、リーネの名を呼んだ。
答えはない。目は、閉じたまま。
若さまは竈に薪を組んだ。細いのを下に、太いのを上に、三本を三角に。隙間を空けて、手を離す。
ぽっ、と赤いものが息をして、火が立った。
暗かった小屋が、橙色に染まっていく。リーネの頬の灰が、火の色に光った。
少しして、その小さな手から、枝が落ちた。
かつん、と。土間の上で、乾いた音がした。
若さまは、火を焚き続けた。
アンナと赤子の息は、まだ細い。火を絶やせば、もたない。
残りの薪は、若さまに言われて、動ける村の男たちが、一軒ずつ戸を叩いて配って回った。
ヨアヒムの家の戸だけは、いくら叩いても、開かなかった。
眼鏡の少年は、大麦を鍋にあけて、竈の脇にしゃがみこんだ。焦げつかないように、木の匙で底をかき回し続けた。湯気で眼鏡が曇っても、拭かない。拭く手を、止めたくなかったのだろう。
竈のいちばん近くに、アンナと赤子。リーネは、毛布で二重にくるんだ。
若さまは、戸口の隙間風のところに座っていた。いちばん寒い場所に。一口も食べない。若さまが食べないので、眼鏡の少年も、食べなかった。仔犬が、若さまの足に腹を押しつけて、じっと動かない。
アンナと息子は、助かった。
火が落ち着いたころ、オットーは、鍋の底に残った粥を、椀にひとつよそった。
それを持って、戸口の少年の前に立つ。黙って、差し出す。
自分の娘の息が止まった、その小屋で。
若さまは、長いあいだ、椀を見ていた。それから、両手で受け取った。
ひと口だけ、食べる。
何も言わずに、椀を横へ差し出す。竈の脇で、匙を握ったままの、眼鏡の少年のほうへ。
眼鏡の少年も、ひと口だけ食べた。曇った眼鏡の下で、顔が、くしゃりと歪んだ。
椀は、半分以上残ったまま、オットーの手に戻ってきた。
若さまは、何も言わない。ただ、オットーの手ごと、その椀をそっと押した。竈のそばで、赤子を抱いて眠るアンナのほうへ。
蕪と、麦の粥。リーネが、毎晩、ふうふう吹いて食べていた味だ。
やがて、雪が止んだ。
戸口から、雪明かりが白く差しこむ。
若さまは、毛布にくるまれたリーネの前で、冷たい土間に膝をついた。
「すまない」
十六の少年は、泣いていない。泣くことさえ、自分に許していない顔だった。
「私が、あと半日、早く来ていれば」
違う。
遅れたのは、俺だ。あんたじゃない。二日、遅れたのは、俺なんだ。
喉まで来た。
声が、出なかった。
あのとき言えていたら、と、オットーは九年、思い続けている。
その冬、霜降り村では、リーネと親父を入れて、十二人が死んだ。
春になって、先代さまが病で亡くなり、あの少年が辺境伯になった。
新しい辺境伯さまが最初にしたのは、城の蓄えの半分を、七つの村に分けること。
そして、城の礼拝堂の扉に、もう一度、鍵をかけること。
それから、厨房のいちばん大きな竈の火を、自分の手で消すことだった。
オットーは、その春、斧を置いて城の兵になった。
恩を返したかったのか。娘のいない小屋に、もう住んでいられなかっただけなのか。今でも、よくわからない。
ただ一つ、わかっていることがある。
あの冬から、辺境伯さまは、自分のためには、火を焚かなくなった。
夜の見回りで、執務室の窓の下を通る。凍える晩でも、あの窓の明かりは、いつも細くて、暗い。毎晩、オットーはそれを見上げてきた。
あの人は、まだ、あの小屋の戸口にいる。いちばん寒い、隙間風のところに。
自分で選んで、座ったまま。
だから、あの夜。
泥だらけの姫が、竈の前で熾火を吹いていた。閣下に運ぶ、スープのために。その足元に、大きな竈の前へ戻ってきた犬。
ふう、ふう。小さな息がかかるたびに、灰の下で、赤いものがかすかに明るくなる。
――この火が、あの人のところまで、届けば。
誰にもできなかった。自分にも。あの日、粥の椀ひとつ差し出すのが、精いっぱいだった。
けれど、この火なら。
気がつくと、オットーの足は、裏の薪小屋へ走っていた。
――薪は、節約するようにと、ギルバートさまが。
口ではそう言いながら、両腕に抱えられるだけ抱えた。乾いたものだけを、選んで。
姫の前に、薪を下ろす。
口から出たのは、あの冬の、あの少年の言葉だった。
「俺が勝手にやったってことに、してください」
姫が、顔を上げる。
笑った。
頬に、灰がついていた。
オットーは、目を逸らす。逸らさなければ、何かがこぼれそうだった。
その夜、兵舎の寝台に横になってからも、オットーは、なかなか眠れなかった。
薪を抱えて厨房へ戻る途中、裏口の暗がりで、花の匂いを嗅いだ気がしたのだ。
雪しかない北の城で。冬の、さなかに。
百合だった。
霜降り村の裏の崖に、夏になると一輪だけ、白い百合が咲く。リーネは毎年、欠かさず、それを摘んできた。両手で大事そうに持って、走って帰ってきて、とうちゃん見て、と。
ずっと、思い出さないようにしてきた匂いだった。
暗い天井を見上げたまま、オットーは、毛布を目の上まで引き上げた。
◇
オットーさんが、その話をすべて聞かせてくれたわけではない。
話してくれたのは、九年前の冬に、霜降り村で娘さんを亡くしたこと。閣下があの冬のあとに、礼拝堂にもう一度、鍵をかけたこと。大きな竈の火を、自分で消したこと。
それだけ。
帳面を開いたまま、訊いた。
「娘さんのお名前を、伺ってもいいですか」
オットーさんの手が、膝の上で、一度、握られた。
「……リーネ」
炭を、紙の上に置く。
書こうとして、手が止まった。この人の長い冬を、私はまだ、半分も知らない。
「九年、誰にも訊かれなかった」
オットーさんは、それきり、何も言わない。
私も、何も言わなかった。帳面の余白に、その名前の場所だけを、ひとつ空けておく。
「その、鍵をかけた礼拝堂は、どこにあるんですか」
「東の端の、崖に面した塔です。あれから、誰も入ってない。閣下も、ギルバートさまも」
「鍵は」
「閣下が、お持ちです。誰にも、渡してない」
オットーさんの口は、そこで閉じた。
その夜、閣下へのスープを運んだあと、西棟の部屋に戻っても、胸がざわざわして落ち着かなかった。
窓枠の外側で、つがいの山鳩が丸くなっている。窓を細く開けて、枠の隅に麦をひとつまみ置き、そっと閉める。
「神さま」
窓の外は、静かな雪。
「閣下は、あの冬のことを、ずっとご自分のせいだと思っていらっしゃるんですね」
『うむ』
「それで、礼拝堂に鍵を。竈の火も」
『うむ』
神さまの声は、短い。
「神さまは、怒っていらっしゃいますか。閣下が、神さまの家に鍵をかけたこと」
雪が、窓硝子に当たって、かすかな音を立てる。
『セラや』
『鍵をかけたくらいで、わしがあの子を嫌いになると思うかね』
責める響きは、どこにもなかった。
『あの子はな、わしに怒っておるのではない。自分には、わしの前に立つ資格がないと思うておる。あの子の心は、あの雪の中に、まだ膝をついたままなのじゃよ』
毛布を、握りしめる。
『じゃからな。わしも、ずっと、隣に膝をついておる』
寝台を下りた。
冷たい床に、膝をつく。そうしないと、いられなかった。
「……オットーさんの隣にも、ですか」
『おるよ。あれは、まだ気づいておらんがの』
百合の匂いが、ほんの少しだけ、した。
膝の下の床が冷たい。九年の雪は、もっと冷たかったはずだ。
「神さま、あの。明日、礼拝堂を掃除しちゃ、だめでしょうか」
『鍵がかかっておるぞ』
「窓から入ります」
雪が、窓硝子を、二度、三度、叩く。
それから、小さく笑った。雪の下で、何かがひとつ溶けたような声だった。
『あそこの床は、長いこと、誰にも磨いてもらっておらんでのう。それからな、あそこの丸窓には、鳩が一羽おる。雪に埋もれておるが』
「鳩、ですか」
『行けば、わかる』




