第20話 神さまは、名前をひとつも忘れない(一)
医務室の夜から、城の人たちの私を呼ぶ声が変わった。
「聖女さま、おはようございます」
「聖女さま、井戸の水は俺が汲みますんで。ルッツの代わりに」
「聖女さま、その桶、重いでしょう」
廊下ですれ違うたびに、兵士たちが帽子を取る。七日前には城門の陰から「生贄の姫」を遠巻きに眺めていた人たちだ。
頬のあたりが、少し熱い。
なのに、胸の奥のどこかが落ち着かない。
聖女さま。お飾り。生贄の姫。呼び方は変わっても、どれも、私の名前ではない。
「神さま」
厨房の床を掃きながら、小さな声で言う。箒の先で、グラウが寝ている。今日はもう何度も、ずれてもらった。
「皆さん、私を『聖女さま』って呼んでくださるんです。でも私が知っているお名前は、厨房の六つの椀のまわりだけで」
箒の柄を、左手で握り直す。
「なんだか、ずるい気がして」
ふわり、と百合の香りがした。
『ほう』
少しだけ、声が弾んでいる。
『では、覚えればよい』
「全員ですか? お城には、何十人もいらっしゃいますよ」
神さまは、すぐには答えない。
『わしは、全員の名を知っておるよ』
明日の天気でも話すような、穏やかな声だった。
『この城の者だけではない。麓の村の赤子も、峠の小屋の炭焼きの爺も、帝国の兵舎で故郷を恋しがっておる若いのも。ひとつも、忘れたことはない。忘れるということが、わしには、できんのじゃ』
箒が止まる。
世界をお創りになった方が。百人でも千人でもなく、ひとり残らず。
峠の炭焼きのお爺さんにも、きっと、朝ごとに呼ばれている名前がある。
『回廊で、約束したな。帳面を持ったら言う、と。年寄りは、待てんでのう』
ひと呼吸。
『お主の名じゃ、セラフィーナ』
かたん、と箒が床に倒れた。
拾えない。手が、動かない。
高い窓から冬の朝の光が斜めに落ちて、掃き寄せたばかりの埃が、その中をゆっくりと舞っている。竈の鍋が、ことこと鳴る。いつもと同じ厨房。なのに、今の一言だけが、まだ光の中に浮かんでいる気がした。
セラフィーナ。
王城で、その名を呼ぶ人はいなかった。呼ばれるのは「おい」か「床磨き」。十年のうちに、自分でも、記録簿の中にしかない名前だと思うようになっていた。
その名を、神さまは、壊れものを両手ですくい上げるみたいに呼んだ。
『お主の母御が、息を引き取る前に、いちばん最後に呼んだ名よ。わしは、ちゃんと聞いておった。足首の鈴が、そのとき一度だけ鳴った』
鈴。
母が足首につけていたという、小さな鈴。私は、その音を知らない。母の顔も、声も、何ひとつ覚えていない。
その知らない声が、最後の息で、私の名前を呼んでいた。
ひとりで生まれてきたのだと思っていた。誰にも待たれずに、間違いのように。
百合の香りが、濃くなる。光の中の埃が、白い花びらのように見えた。
『――愛している、セラフィーナ。生まれる前から』
その一言だけ、いつもの訛りがなかった。
胸の奥が、温かい。
十歳の冬から、ずっとそこにあった温かさ。指がかじかむ夜も、足もとから冷えが這い上がる朝も、消えなかったもの。天気の話みたいに、当たり前に思ってきたもの。
あれは、これだったのだ。
物置小屋の土間でも、大聖堂の冷たい床でも。毎日、ずっと。私は、呼ばれていた。
『……母御もな、同じことを、鈴で言うておった。お主は、わしと母御と、二人に待たれて生まれてきたのじゃ』
「……はい」
返事をしたら、声が震えた。
掃きかけの床に、座りこむ。
掃いたばかりの板の上に、丸いしみがひとつ、ふたつ。
せっかく掃いたのに、と思った。思ったら、もう止まらなかった。
グラウが起きてきて、私の膝に鼻を押しつける。
しばらく、そのまま。
『……のう、セラ』
ずいぶん経ってから、いつもの、のんびりした声がした。
『床が、また濡れたのう』
「……神さまのせいです」
『そうか。わしのせいか』
なぜか、少し嬉しそうだった。
『人の名を覚えるのが得意なら、書きとめておくとよい。回廊で、そう言うたな』
「はい」
『人は、忘れる。じゃから書く。わしの帳面はな、破れもせん、燃えもせん。じゃがお主には、紙が要る』
袖で顔を拭いて、箒を拾う。
『一人ずつ、書きなされ。まとめて書いてはいかん。一人ずつじゃ』
一人ずつ、という言葉だけが、耳に残った。
『並ぶと言うた帳面のことも、忘れておらんよ。十二の名の帳面じゃ。九年、一行も増えておらん』
グラウが、閣下の部屋のある上の階を、ちらりと見上げる。
その日から、私は名前を集めることにした。
「何に使うんだい」
「お名前を書きます」
「誰の」
「みんなの」
マルタさんは何も言わずに、厨房の古い帳面から、余白の多いページを破る。それから、炭のかけらをひとつ。
「濡らすんじゃないよ」
私の目もとを見て、それだけ言った。
空けておけ、と言われた場所が、私にはある。七年、誰も入らなかった場所。
そこへ、一人ずつ入ってくる。
いちばん上には、王都の二人。そこに最初に入ったのが、この二人だった。
ヨルク。百二十年前の石屋。窓枠の右端の石を継いだ人。色が合わないと、三日悩んだ人。
ノア。十二歳。見習い。桶に水を汲んで、布を置いてくれた子。今も、あの窓に麦を置いている子。
それから、この城の人たちを。
マルタ。四十年、竈を守っている。塩は蕪と一緒に入れる人。
トビアス。十五歳。麓の村に、妹が二人。指が、桃色に戻った。
ヘルマン。関所から一緒に来た騎士。鼻が凍る人。毎朝、鼻の頭に湯気の雫。
ニコ。そばかす。蜂蜜の瓶の置き場所を知っている、たぶん、ただ一人。
グラウ。歳は、誰も知らない。閣下が十六の冬に拾った。九年ぶりに、大きな竈の前で寝た。
書くたびに、その人の顔が一つ、はっきりする。
廐番のヨナスは、無口で、馬にだけはよく話しかける。私が廐に行くと、目を合わせずにブラシを差し出した。
「犬も、ブラシは、要る」
それだけ。
グラウは、ヨナスのブラシを嫌がらない。
洗濯場のエルザさんは、いつも鼻歌を歌っている。名前は、前から知っていた。
「歌ってないとね、洗濯物が乾かない気がして」
旦那さんが三年前の雪崩で亡くなったことは、この日、初めて知った。
そう話すあいだも、鼻歌は途切れない。絞る手も、一度も止まらない。
門番のカールさんは、ギルバートさまが怖くて、目が合うと直立不動になる。
「あの人、笑ったところを一度も見たことがない」
それから、もっと小さな声で。
「この前の晩、見張り小屋で居眠りして、閣下に叱られたんです。寝るな、って、それだけ。……そのあと閣下が、俺の火鉢に炭を足していかれました。閣下が、ですよ」
カールさんは、そのときの燃え殻を、まだ捨てられずにいるそうだ。
帳面の閣下の欄は、まだ空いている。けれど、カールさんの名前の横に、小さく書き足した。
炭を足してもらった人。
鍛冶場のブルーノさんは、腕が私の胴より太い。甘いものが好きで、厨房に来ては「干し林檎、まだあるか」と訊いて、マルタさんに「ない」と追い返される。
三日目の朝、箒の柄に、なめした革が巻いてあった。誰が巻いたのかは、煤のついた指の跡で分かった。
廊下で会うと、ブルーノさんは目を逸らしたまま、ぼそりと。
「左手だけでも、滑らんだろ」
紙の端まで、名前が並ぶ。
どの名前の横にも、その人が誰にも言わずにしたことが、一つずつ。
自分の名前は、書かなかった。
書かなくても、もう、呼ばれている。
そして、医務室の三つ目の寝台に、まだ寝ている人。
「王女さま。俺の名前、書いてくれました?」
ルッツは包帯の左肩を毛布から出さないようにして、首だけをこちらに向けた。
「書きました。ルッツ。二十歳。井戸の水を汲んでくれた人」
「それだけですか」
少し考えてから、訊き返す。
「何か、足したほうがいいですか」
ルッツはしばらく天井を見る。それから、首まで赤くして言った。
「『毎朝』って、足してください。六日間、毎朝。一日も欠かさず」
「はい」
炭で「毎朝」と足す。
「それから」
「はい」
「……『これからも』って」
炭を持つ手が、止まる。
「ルッツさん。肩が治るまでは、無理です」
「治ったら、です」
「治ったら、ですね」
その言葉は、書かなかった。
代わりに、湯に浸して左手で押して水を切った布を、ルッツの包帯のないほうの手に載せる。ルッツはその布を、しばらく見ていた。目を閉じる。
「あったけえ」
隣の寝台から、誰かの声。
「ルッツ、鼻の下」
医務室を出るとき、扉のところでふと振り返った。
ルッツは目を閉じたまま、温かい布の載った手を、もう片方の手でそっと押さえている。
あの布も、朝までには冷える。
『「これからも」、か』
(神さま?)
『いや。本人が気づく前には、言わん』




