第19話 閑話 四十年の竈
四本目の薪を、あたしは見ている。
厨房の火は、もう落とした。お姫さんは西棟に上がっている。灰色の犬も、とうに坊ちゃんのところへ上がっていった。竈の前にいるのは、あたしひとりだ。
四十年、この厨房であたしが量ってきたのは、薪の本数と、塩のひとつまみだけだ。人の心は量らない。量ると、減るのが見えるからね。
だから、これから話すことも、量ったわけじゃない。ただ、覚えているだけだ。
先代の奥様は、坊ちゃんが五つの冬に亡くなった。
亡くなる前の晩、奥様は、この厨房に下りてきなすった。もう、ひとりでは歩けない体で。侍女に肩を借りて、石段を一段ずつ。
大きな竈の前に座ると、奥様は両手を、火のほうへ差し出した。
かざしたんじゃない。包むように、だった。雛を抱きこむ親鳥の翼みたいに、火のまわりに、痩せた両手を丸めて。指の骨が、火の色に透けていた。
「マルタ」
「はい、奥様」
「あの子が、もし、泣かない子になったら」
奥様の目は、火から離れない。
「あなたの竈のそばに、座らせてやってちょうだい。火のそばでなら、人は、泣けるから」
あたしは、はい、と言った。
奥様は、笑った。あたしが見た、最後の顔だ。
それから四十年のうちで、あたしが守れなかった約束は、それひとつきりだ。
奥様がいなくなってから、坊ちゃんは泣かなかった。
葬いの日も。旦那様が礼拝堂に鍵をかけて、城じゅうの花を捨てさせた日も。誰の膝にも乗らずに、五年。
十になった冬の朝、あたしは坊ちゃんを、この竈の前に座らせた。
「細いのを下に。太いのを上に。三本を、三角に」
教えたのは、それだけだ。
はじめは、薪をぎゅうぎゅうに詰めて組んだ。煙だけ出て、つかなかった。
次は、強く吹きすぎ。小さな火が、散って消えた。
その次は、やっと赤くなった火を、待ちきれずに火箸でつつく。崩れて、消えた。
あの子は泣かなかった。唇を噛んで、黙って、もう一度組み直そうとする。
あたしは、その手を止めた。
「坊ちゃん。薪と薪のあいだを、空けな」
「空けたら、崩れる」
「崩れやしない。火はね、空けたところにしか来ないんだ。詰めこんだら、息ができない。吹きすぎたら、逃げる。つついたら、死ぬ」
あの子は、わからない顔をした。十の子には、わからなくていい。
「組んだら、手を離して、待つんだよ。火のほうから、来るまで」
何度目かに組み直したとき、あの子は、薪と薪のあいだに、指一本ぶんの隙間を空けた。火口に火を移して、それから、両手を膝の上に置いた。
吹かない。つつかない。ただ、待つ。
しばらくして、隙間の奥で、ぽっと、赤いものが息をした。
火が、ついた。
あの子は、あたしの顔を見ない。火だけを見ていた。五年ぶりに、何かをじっと見る顔だった。
あとになって、思う。あれは、火の話だけじゃなかった。
人の心も、たぶん、同じだ。
悲しいとき、人は、心をぎゅうぎゅうに詰めてしまう。泣かないように。考えないように。隙間を作ったら、崩れてしまいそうで。けれど、詰めこんだ心には、誰の温かさも入っていけない。
奥様の口癖が、ある。
「神さまはね、マルタ。空いているところに、座りなさるのよ。いっぱいのところには、座れないの」
あのときは、わからなかった。竈の前で、十の子が隙間を空けて、両手を膝に置いて待っているのを見て、やっと、少しだけわかった。
泣きはしない。でも、あのとき、あたしは思った。この子は、いつか、ここで泣ける。奥様の言ったとおりに。
その日から、大きな竈の火は、あたしより先に、あの子が組むようになった。毎朝、六年。
旦那様が鍵をかけた礼拝堂の扉も、いつだったか、あの子が自分で開けていた。旦那様は、何も言わなかった。
九年前の春。
霜降り村の十二人の弔いから戻った朝のことは、今でも、灰の匂いと一緒に覚えている。
坊ちゃんは、大きな竈の前に立った。火は入っていた。その朝は、あたしが組んだ火だ。
あの子は、洗い場の水桶を持ち上げて、その火に、かけた。
じゅう、と灰が鳴く。白い湯気が、天井まで上った。
あたしは止めなかった。止められなかったんだ。あの顔を見たら、四十年の竈番でも、手が出ない。
水桶を置いて、あの子は「もう、いい」とだけ言った。
何がもういいのか、訊かなかった。
泣けないまま、あの子は、泣ける場所を、自分の手で消したんだ。
それから、あの竈は、あたしのものじゃなくなった。坊ちゃんのだ。坊ちゃんが消した火は、坊ちゃんがつける。
あたしは小さい竈で兵の粥を炊いて、大きい竈の灰には、指一本触れずに待った。
ただ、待つだけじゃない。
毎朝、竈の縁だけは拭いた。煤がこびりついて、石が割れないように。
火口の麻くずは、湿らないように、毎晩、乾いた壺に入れ替えた。
火打石は、棚の上に置いた。あの子の手が、いちばん届きやすい高さに。一度も動かさずに。
あの子がいつ、どんな顔で下りてきても、手を伸ばせば、すぐに火をつけられるように。
毎朝、竈の前の、あたしの隣を、ひとり分だけ空けておいた。
誰のためかは、言わなかった。自分でも、はっきりとは言えない。坊ちゃんのためだったかもしれないし、奥様のためだったかもしれない。あたしは、ひとりで待っていた気がしなかった。
いちばん長い待ち方だ。
お姫さんが来た夜、大きな竈の灰が、掻き出された。
あたしの教えたとおりに。細いのを下に、太いのを上に。左に寄せた灰桶まで、教えたとおり。
あの子は、忘れていなかった。火を消したまま、組み方だけは、ずっと手に持っていた。
そして今夜、四本目が載っている。太いのが。
薪は、人が組む。隙間を空けて、手を離して、待つところまでは。
火は、そのあとに、向こうから来る。
十の冬に教えたことを、あの子は、九年かけて、もう一度やり直している。
薪は、もう揃った。あとは、火だけだ。
組ませたのは、あたしじゃない。
毎晩、あの子の椀を空にさせた、あのお姫さんだ。
お姫さんは、右手を袖に隠して、左手だけで鍋をかき回していた。あたしに言われるまで、痛いとは言わない。
先代の奥様も、そういう人だった。坊ちゃんが三つで熱を出した晩、奥様は、侍女にまかせずに自分で粥を運ぼうとして、階段でこぼしなすった。そうして、雑巾を取りに、自分で厨房へ下りてくる。あたしが代わると言っても、聞かなかった。
身分のある人は、こぼしたら、人を呼ぶ。それが当たり前だ。奥様は、呼ばなかった。辺境伯の奥方が、厨房の床に膝をついて、自分の手で雑巾を絞った。
あの日から、あたしは決めている。偉いかどうかじゃない。誰かのために、自分の手を汚すのを嫌がらない人。それが、あたしにとっての、この城の奥方だ。誰にも言っていない。言う相手もいなかった。
お姫さんも、そうだ。王女なのに、あの子は誰も呼ばない。
ただ、そういう人は、たいてい、痛いのまで自分ひとりで持ってしまう。奥様も、最後の晩まで、痛いとは一度も言わなかった。
あたしが毎朝ここで待っていても、できなかったことを、あのお姫さんは、たった七日でやってのけた。
悔しくはない。……少ししか。
あたしは急かさない。急かして早くなった火なんて、ひとつもなかった。
でも、急かさないのと、放っておくのは、違う。
九年、あたしは、火打石の埃を払いつづけた。
それから、もうひとつ。これも、誰にも言っていない。
お姫さんが厨房にいると、ときどき、百合の匂いがする。
真冬の北の城に、百合なんか咲かない。香油を持っている娘でもない。あの子の麻袋に入っているのは、麦と、紙きれと、ぼろの布だけだ。
なのに、ふっと、匂う。
決まって、あの子が、ひとりで何か小さくつぶやいているときだ。
はじめは、独り言だと思っていた。けれど、独り言にしては、間があく。何か言って、黙って、しばらくしてから、「はい」と頷く。誰かの話を、最後まで聞いてから答えるみたいに。
朝の粥の卓でも、そうだった。ヘルマンが自分の鼻をつまんで、みんなが笑ったとき。あの子は椀で口を隠して、うつむいたまま、唇だけを小さく動かした。
笑ってません、と読めた。
誰に言ったんだか。あの卓で、あの子に「笑ってる」なんて言った者は、ひとりもいなかったのに。
医務室で、兵の手を握っていたときも、匂った。あの子の唇が、声を出さずに動いていた。誰かに、お願いをしているみたいに。
あのお姫さんは、修道服一枚と、麻袋ひとつで、この城に来た。王女の嫁入りだというのに、荷馬車の一台もついてこない。手はあかぎれだらけで、自分のことを「床磨きです」と言った。
それだけの扱いをされてきたのに、あの子は、恨み言をひとつも言わない。王都の悪口も、言わない。大広間で兵の椀をよそうとき、自分の分は、いつもいちばん最後だ。
ふつうは、ああいう目に遭えば、心が恨みでいっぱいになる。あたしだって、きっとそうなる。
あの子の心は、いっぱいになっていない。
奥様の言葉を、思い出す。神さまは、空いているところに座りなさる。いっぱいのところには、座れない。
だから、あの匂いがするんだろう。
あの子のそばには、神さまがいなさる。
あの子が兵の手を握ると、神さまが、その手で温めなさる。あの子が鍋をかき回すと、神さまが、その湯気で坊ちゃんを温めなさる。あの子と神さまは、ふたりで一緒に働いているんだ。
はじめは、あの子が王都から神さまを連れてきたんだと思った。
でも、たぶん、違う。
神さまは、あの子にだけついているんじゃない。あたしの竈の前にも、坊ちゃんの冷たい部屋にも、ずっといなさった。あたしたちが、気づかなかっただけだ。
あの子が違うのは、ひとつだけ。神さまの声に、ちゃんと返事をしていることだ。
あたしにできるのは、ここまでだ。竈を拭いて、火口を乾かして、火打石の埃を払うところまで。
その先は、あの子と、神さまに、任せることにする。
四十年で初めて、あたしは、自分の竈の火を、自分より大きな手に任せる気になった。
小さい竈の熾火を、灰で埋める。毎晩そうしてきた。
今夜の埋め方が少し丁寧になった理由は、誰にも言わない。
奥様にだけ、言った。
竈の前の、空けておいたひとり分の場所に向かって。
もうすぐですよ、奥様。
あの竈に火が入ったら、今度こそ、あの子を、火のそばに座らせます。
もう、ひとりで歯を食いしばらなくていいように。
泣けるように。




