第18話 お飾り聖女の手は、あたたかい(三)
それから、夜が明けるまで。
私は、医務室の寝台を順番にまわった。
爪の傷を、煮沸した布で洗う。凍えた足を、手のひらで包む。熱に浮かされて母親を呼ぶ兵士の手を、ずっと握っている。
目に見える奇跡は、あれから一度も起こらない。深い傷がたちまち塞がることもない。
けれど私が手を当てた兵士たちは、みんな、少しだけ呼吸が穏やかになって眠っていった。
「王女さまの手、あったけえな」
誰かが、うわごとのように言う。
「あったけえ。おふくろの手みてえだ」
ルッツは三度目に私が回ってきたとき、目を開けて小さな声で言う。
「王女さま。あの、俺、明日は無理ですけど、明後日には、水、汲みます」
「明後日も、無理です。寝ていてください」
「じゃあ、その次」
「その次も」
「その次の次」
「わかりました。その次の次に、お願いします」
ルッツは満足そうに笑って、目を閉じた。隣の寝台の兵士が、目を閉じたまま、「ルッツ、鼻の下」と言った。
『のう、セラ』
(はい)
『お主は今夜、何も光らせておらん。何も塞いでおらん。じゃが、この部屋の十一人が、全員、眠れておる。……まだ吹雪の尾根に残されておる一人は、わしが隣で見ておる』
(眠っているだけです)
『痛みの中で眠れるというのはな、簡単なことではないぞ。金の壁画の前で祈っておる者らは、痛みにうなされる者を、朝まで休ませてやる祈りを、まだひとつも知らん。それだけは、言うておく』
窓の外で、風の音が、少しずつ、細くなっていく。
明け方近く、医務室の扉が開く。
冷たい風と一緒に、雪まみれの大きな影が入ってきた。
黒い外套は凍りついて白くなり、銀灰色の髪にも、睫毛にも、霜が降りている。その腕には、最後まで尾根に取り残されていた兵士が、ひとり抱きかかえられている。
「閣下!」
兵士たちが、ざわめいた。
「ご自身で、尾根まで!? この吹雪の中を!」
閣下は何も答えず、抱えてきた兵士を空いた寝台にそっと横たえる。それから、ゆっくりと、医務室の中を見渡した。
眠っている兵士たち。桃色の指先を毛布の上に出して、すやすやと寝息を立てる少年兵。その足元で、腹を押しつけたまま眠っている灰色の犬。
そして、その寝台の脇で、湯の桶を抱えたまま膝をついている、泥と血で汚れた修道服の私。
アイスブルーの瞳が、私の上で止まる。
睫毛の霜が部屋の暖かさで溶けて、一粒、頬を伝う。閣下はそれを拭わない。拭いてさしあげたい、と思った。思っただけで、手は桶を抱えたままだ。
「ここで、何をしている」
低い声。けれど執務室で聞いたあの冷たい声とは、違う。
「皆さんの、手を温めていました。足は、グラウが」
それしか答えられなかった。
閣下は少年兵の指先を、長いあいだ見つめている。それから、その足元の犬を。
九年前、霜降り村の小屋で、十六歳の自分の足を温めていた犬を。
オットーさんが、震える声で言う。
「閣下。トビアスの指、落とさずに済みそうです。王女さまが、あいつの手を、ずっと両手で包んでくださって。グラウが、足を」
「それだけじゃねえです」
寝台のあいだから、別の声がした。傷の浅い兵の一人が、上体を起こしていた。
「奥の三人も、朝まで熱が上がらなかった。夜中に一度、みんな痛がって騒いだんです。それが、聖女さまが順に手を握って回ったら、静かになって。治ったわけじゃねえ。ただ、ちゃんと息をして、眠れたんです。さっき一人は、自分で水を飲みました。誰も、うなされなかった」
閣下の表情は変わらない。
変わらないけれど、その喉が一度だけ、ごくりと小さく動いた。
閣下が私の前に歩いてくる。
そして、私の右手を見る。桶を抱えている、薬草の匂いのする右手を。一晩じゅう、何人もの冷たい手を握っていた、私の手を。
「……その手で、か」
「はい」
閣下は何も言わない。
言わないけれど、その手が一瞬、私の右手のほうへ動きかけた。動きかけて、止まる。それから閣下は、自分の凍りついた外套の襟を握った。
『……今、手が、迷うたのう』
小さな声だった。
『止めるのに、あの子は今、ありったけの力を使ったぞ。剣を止めるより、難しいことじゃ。剣は、止め方を、教わっておる。手は、誰にも教わっておらん』
閣下は少年兵の寝台のほうへ一歩、歩く。それから私に背を向けたまま、低く言った。
「眠れ。あとは、私が見ている」
「でも、まだ、いちばん奥の方の熱が――」
「眠れと言った」
閣下は振り返らない。
「お前は、もう十分に、この部屋の火だった。火は、燃え尽きる前に、休ませるものだ」
私は、何も言えなくなった。
「お前」だった。「貴様」でも、「セラ嬢」でもなかった。
それでも、しばらくは動けなかった。いちばん奥の兵の額の布を替えて、湯を足して、次の一人の手を取って。
三人目の手を離したとき、指が自分のものではないみたいに重かった。
窓の外が、うっすらと白んでいる。
少年兵の寝台の縁に、ほんの少しだけ寄りかかったつもりだった。
窓から、薄い朝の光が差しこんでいる。吹雪は、いつの間にか止んでいた。
吹雪のあとの朝は、世界が、洗ったばかりのシーツのように白かった。窓の外の雪は、まだ誰にも踏まれていなくて、風が作った波の模様が、朝日を受けて、ひとつひとつ、薄い青の影を持っている。
あんなに吠えていた風が、今は、どこにもいなかった。空は、水を張った硝子の器のように、澄んで、動かない。
窓枠の外側に、山鳩が二羽、身を寄せ合って止まっていた。東の塔から、下りてきたのだ。医務室の窓に来るのは、初めてのはずだった。
体を起こそうとして、肩の上に、何か重いものが載っていることに気づいた。
黒い、厚手の外套。
雪はすっかり溶けて、まだほんのりと、誰かの体温が残っている。襟元には銀糸で、竜の紋章。
「え」
医務室の入口に、ギルバートさまが立っている。腕を組み、壁に寄りかかって、心底複雑そうな顔で私を見ている。
「閣下は、執務室へ戻られました」
眼鏡を押し上げる。
「その外套は、閣下が冬の遠征で必ずお召しになるものです。どなたにもお貸しになったことはありません。私にも。膏薬の壺と、同じです」
私は、肩の外套を、そっと両手で握りしめた。
「それから、閣下から伝言です」
ギルバートさまは、懐から、一枚の紙片を取り出した。見慣れた、角ばった硬い筆跡。
――今夜から、兵の粥にも、塩を足せ。
そして、その下に、少し小さな字で、もう一行。
――礼を言う。
紙片を胸に抱いたまま、動けなくなる。
ギルバートさまはふいと顔を背けて、眼鏡を外し、ていねいに拭いて、掛け直した。それから医務室を出ていく。扉のところで、一度だけ、口を開けて、閉じた。
朝の光の中で、百合の香りがふわりと広がる。
『あの子の戸がな。内側から、ほんの少しだけ、軋んだわい。長いあいだ錆びついたまま、一度も動かなんだ戸が』
外套に顔をうずめた。
冷たい石の匂いと、雪の匂いと、ほんの少しの鉄の匂いと、それから薬草の匂い。この外套の持ち主は、毎晩、あの膏薬を塗った手でこの襟を握っていたのだ。
泣いているのは、たぶん、徹夜明けで眠いせいだ。たぶん。
『セラや。ひとつ、言うておこう』
(はい)
『今朝、お主が眠っておるあいだにな。あの子は、この医務室に、四半刻、立っておった。お主の肩に外套を掛けてから、扉のところで、動かなんだ。あの眼鏡の若者が、それを見ておった。何も言わずにな』
(……)
『三人分、心が動いた朝じゃ』
窓枠の鳩が、でで、ぽぽう、と鳴いた。大きいほうだ。小さいほうは、鳴かずに、私を見ていた。
その日の夕方、厨房に下りていくと、大きな竈の前で、マルタさんが腕を組んで立っていた。
組まれていた三本の薪は、そのまま。
けれど、その脇に、四本目が、一本、増えていた。
太い薪だった。細いのを下に、太いのを上に。三角の上に、もう一本。
「昨夜、吹雪の前に、坊ちゃんが下りてきた」
マルタさんは、竈を見たまま言った。
「一本、足して、行った。火は、まだ、入れてない。でも、四本になった」
『四本目はな』
神さまが、おっしゃった。
『太い。太い薪はな、火がつきにくい。細い薪が三本、先に燃えてくれんと、つかん』
「でも、一度つくと」
『いちばん長う燃える。朝まで、な』
私は、四本目の薪を見る。細いのを下に、太いのを上に。自分で組んで、自分で置いて、火はつけずに行った人のことを。
「閣下みたい」
『さあのう』
神さまは、とぼけた。とぼけ方が、少し下手だった。
期限の三ヶ月まで、あと八十三日。
火の入らない竈の薪は、四本になった。




