第28話 鼻ではなく、胸の奥で(一)
百合の芽は、七日で、指二本分だけ伸びた。
礼拝堂の祭壇の脇。丸窓の色硝子の光が、いちばん長く当たる場所に、小さな鉢を置いてある。毎朝、床を磨く前に、まずそこを覗くのが癖になった。
「今日も、少し伸びましたね」
『気の早い芽じゃのう。春は、まだ二月も先じゃというに』
そう言いながら、神さまは、まんざらでもなさそうだった。
鉢は、鍛冶場のブルーノさんのお手製だ。厚ぼったくて、少し歪んでいて、底に小さな穴がひとつ。
「水は、やりすぎるな。冬の球根は、濡れてると腐る」
「はい」
「それと、干し林檎、まだあるか」
そこで、マルタさんに鍋の蓋で追い返された。
鉢の歪みを、指でなぞる。歪んでいるところが、いちばん手になじむ。
ジュリアン殿下は、三日前に王都へ帰った。
「こんな寒いところに、一日だっていられるか」
見送る者は、いない。私は厨房の窓から、雪の中に消えていく金糸の長靴を、最後まで見ていた。
門を出る直前、殿下が一度だけ、城のほうを振り返る。
何を見たのかは、分からない。城壁か、塔か。それとも、この窓か。
グラナート侯爵のほうは、帰る様子がなかった。紫の毛皮の従者たちが、毎日、北東の山へ出ていく。古代竜晶鉱山のある山だ。
夜、執務室へスープを運ぶと、ギルバートさまが低い声で報告していた。
「第三坑道の結晶が、この冬に入ってから、灰色に濁り始めているそうです」
扉を閉める手が、一瞬だけ止まった。
──北の竜晶鉱山は、じつはもうじき魔力が枯れる。
謁見の間で聞いた神さまの声が、耳の奥でまだ鳴っている。
その夜は、月が明るかった。
部屋の窓から、北東の尾根が見えた。雪をかぶった稜線が、月の光で、刃物の背のように細く光っている。その下の谷は、まだ青い影の中だ。
眠れなくて、礼拝堂へ下りた。グラウはついてこない。トビアスの指がまだ冷えるので、このところ毎晩、医務室の寝台の足元で寝ているのだ。
夜の礼拝堂は、昼より温かい気がする。
丸窓から差す月の光が、床に、青白い染みを落としていた。白い翼も、緑の葉も、月の光では灰色と黒になる。
雑巾は、持ってこなかった。
いちばん前の長椅子に座って、芽を見ていた。ただ、それだけ。
──蝶番が、軋んだ。
振り返る。
戸口に、閣下が立っていた。
黒い外套を、着ていない。白い麻のシャツに、藍色の胴着だけ。銀灰色の髪が、月の光で、雪のように白く見えた。
この人の、こんな薄着の姿は、初めて見る。
閣下は、敷居の上で止まっていた。片方の足を堂内の石に。もう片方を、外の雪に置いたまま。
息が、止まった。
『セラや。今夜は、黙って見ておりなされ』
(はい)
長いあいだ、閣下はそこに立っていた。
九年前、自分で鍵をかけた場所の、敷居の上に。
雪の上の足が、ゆっくりと持ち上がる。それから、私が今朝磨いたばかりの灰色の床に、そっと下りた。
蝶番が、もう一度、小さく鳴く。
閣下は、祭壇には近づかなかった。いちばん後ろの長椅子の脇に立って、腕を組み、丸窓を見上げる。
「ここは、母が好きだった場所だ」
低い声が、石の壁に返ってくる。
「私が五つのときに死んだ。父が鍵をかけた。九年前に、私が、もう一度かけた」
大事な人を失うたびに、閉じられてきた扉なのだ。
何も、言わなかった。言わないほうがいい気がした。
「あの鳩を、母は『二度目の鳩』と呼んでいた。意味は、教わる前に死んだ」
「葉っぱを、くわえて帰ってきた鳩です」
閣下が、こちらを見る。
「大水のあと、箱舟から、鳩が放たれたんです。一度目は、止まる場所がなくて戻ってきました。二度目は、若い葉を一枚くわえて戻ってきました。水が、引き始めたしるしです」
「三度目は」
「戻りませんでした。帰る場所が、できたからです。鳩を放った人は、それを見て、泣いたそうです。嬉しくて」
閣下は、もう一度、丸窓を見上げた。
「……母は、それを知っていたのか」
「たぶん」
「そうか」
それだけだった。けれど、その「そうか」は、どこかに大事にしまわれた気がした。
「お前は、どうしてそう、簡単に『神さま』と言える」
「簡単では、ないですけど」
「王都の大司祭どもも、同じ言葉を使う。金の壁画の前で、金の杯を掲げて。お前の神は、あれと同じものか」
この問いには、答えなければいけない。
「違います」
立ち上がった。
雑巾を持つ癖で、指が、麻布の端を探す。今夜は、何も握っていない。
そのとき。
閣下が、動かなくなった。
腕を組んだまま。頭も、肩も、指の一本も。雪の中で獣に出くわしたときの止まり方ではなかった。もっと静かで、もっと無防備な。峠で何を見ても眉ひとつ動かさなかった人が、息の吐き方を、忘れている。
閣下の目は、私の顔ではなく、少し横に留まっていた。
肩に落ちた、私の髪に。
月の光が、灰紫の髪を、薄い菫色に透かしていた。
──不吉な色。
七つのときから、ずっとそう呼ばれてきた。王都では、この髪を見ると、皆が目を逸らした。乳母も、侍女も、大司祭さまも。
だから、知らず知らずのうちに、手が髪を押さえていた。隠そうとしたのだと思う。たぶん。
閣下の目が、ようやく、私の目に戻る。
それから、閣下は自分の手を見た。剣を握るための、大きな左手を。
その手を、シャツの胸に、一度だけ押し当てた。
何かを、確かめるみたいに。
何を確かめたのかは、分からない。私には、聞けなかった。聞いたら、何かが壊れてしまいそうで。
自分の心臓の音だけが、やけにうるさい。礼拝堂じゅうに響いているんじゃないかと、本気で心配になるくらい。
──落ち着いて、セラ。問いに、答えるところでしょう。
髪から手を離した。息を吸う。
「私は七つのとき、測定器の前に立たされました」
声は、思ったより、ちゃんと出た。
「針は、動きませんでした。大司祭さまは、五度、測り直しました。五度目のとき、あの方の手のひらが汗で湿っていたのを、覚えています。それから私を、『神に見放された欠陥品』と呼びました」
閣下は、黙って聞いている。
「それから十年、床を磨きました。そのあいだ、目に見えることは、何も起きませんでした。光も、奇跡も。蹴られている私を、誰かの手で止めてくださることも」
ひと息。
「でも、そばに、いてくださいました。ずっと」
十歳の冬のことを話した。熱を出して、物置小屋で死にかけたこと。誰も来なかったこと。そのとき初めて、声を聞いたこと。
──すまんのう。ずっと、そばにおったんじゃよ。
「その声は、雲の上からではなくて、隣から聞こえました。私と同じ、小屋の床の高さから。それから、百合の香りがしました」
ここから先は、誰にも話したことがない。
「でも、閣下。あれは、鼻で嗅ぐ匂いじゃないんです」
うまく言える自信は、なかった。
「香水みたいに、空気に混じっているものではなくて。胸の奥で、匂うんです。何かとても清らかで、静かなものが、そこにいらっしゃる、と。私はそれを、『百合の香り』としか呼べないだけで」
息を、ひとつ吸う。
「その香りがすると……数を、数えなくて、よくなるんです」
閣下の目が、わずかに動いた。
「蹴られた夜でも、そうでした。次の朝、回廊で、蹴った方の靴の泥を、少しだけ、ていねいに拭いて差し上げられました」
自分で言って、少し笑ってしまう。
「どうしてそんなことができたのか、今でも、わかりません」
礼拝堂に、沈黙が落ちる。
月の光が、床の上を、指一本分だけ動いた。
遠くで、枝から雪がひとかたまり落ちる音がした。それきり、また、何の音もしない。
「──胸の奥で」
ほとんど声にならない声で、閣下が繰り返した。
組んでいた腕が、ほどける。片方の手が、長椅子の背に置かれた。
その手が、かすかに、震えている。
「九年前の朝だ」
閣下は、自分の手を見ていた。
「霜降り村の小屋で、夜どおし、火を焚いた。夜明け前に、リーネという娘が──」
声が、そこで途切れた。
待った。急かさないように、息をするのも、そっとして。
「あの子が息を引き取る、少し前だ」
閣下が、顔を上げた。
「小屋の中に、花の匂いがした」
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
月の礼拝堂で、閣下が九年ぶりに扉をくぐりました。
次の話では、閣下が、あの朝のことを話します。
明日も8時・12時・22時の3回投稿します。
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