第15話 閑話 三本の薪
あの娘が出ていくと、執務室には、スープの椀がひとつ残された。
湯気が、まっすぐに立っている。私の部屋の暖炉では、あの湯気ひとつ揺らせないだろう。そう思うと、少し情けなかった。
膝の上のグラウが、ふん、と鼻を鳴らした。早く食べろ、と言っているのだ。辺境伯が犬に急かされているのだから、世話はない。
「わかっている」
私は匙を取って、ひと口すくう。
匙を口へ運ぶたびに、グラウが鼻の頭を持ち上げて、こちらを見る。珍しいものを見る顔だ。
実際、珍しいのだろう。この犬は、私が温かいものを食べるところを、ほとんど見たことがない。
階段を運ばれてくるあいだに、スープはちょうどいい熱さになっていた。それでも、喉を通るときに少し痛んだ。温かいものを、長いあいだ口にしていなかったせいだろう。
蕪と大麦と茸の、素朴な味がした。
十六の冬に、霜降り村で同じような椀を差し出されたことがある。娘を亡くしたばかりの父親が、黙って渡してくれた椀だった。そこまで思い出したところで、私は考えるのをやめた。
手を止めたら、もう食べられなくなりそうな気がしたのだ。だから私は、子どものように急いで、最後まで食べた。
気がつくと、椀は空になっていた。
腹が鳴ったから食べただけだ。そういうことにしておこう。
空の椀を眺めながら、私は今夜のことを考えた。
誰が仕組んだのかは、すぐにわかる。マルタは麓の村へ出ている。留守の厨房を開けたのはオットーあたりで、ギルバートが毒見をして扉を開けたのだ。明日になれば、二人とも涼しい顔で「私が勝手にやったことです」と言うに違いない。この九年、城の中で私を出し抜けたのは、マルタとギルバートだけだった。
今夜、そこにもうひとり加わる。
*
それから私は、あの娘の右手のことを思い出した。
甲が赤紫に腫れて、真ん中が黒ずんでいる手。あれは打ち身ではない。骨にひびが入っている。それも、転んで手をついたひびではない。上から靴底で踏まれて、ねじられた手だ。兵の怪我を何度も見てきたから、それくらいはわかる。
そんな手で、あの娘は鍋を持ち、盆を運んできたのだ。私のために。
「床を磨いていると、よくあることです」
あの娘は、そう言って笑った。
床を磨いていて、骨にひびは入らない。そこまでは言えた。誰が踏んだのかも、言えた。
言えなかったのは、その先だ。笑ってすませることに、すっかり慣れてしまった顔に、何と言えばよかったのか。
言葉なら、いくらでも持っているはずなのに。帝国の使者を、半日で黙らせたこともある。それなのに、あの娘の前に立つと、なぜか何ひとつ出てこなかった。
理由は、考えないことにした。
かわりに、ひとつ決めた。三ヶ月のあいだ、この城では、あの手に重いものを持たせない。桶も、薪もだ。預かりものを傷めて返すわけにはいかない。領主として、当然のことだ。
ギルバートに言えば、あれは眼鏡を押し上げて「もう手配してございます」と言うだろう。それが少し、面白くない。
*
「おやすみなさいませ、閣下。グラウも、おやすみなさい」
あの娘は、そう言って出ていった。
その挨拶を思い返していて、私は、あることに気がついた。
私には「おやすみなさいませ」。グラウには「おやすみなさい」。
犬のほうが、ひとつ親しいのだ。
しかもグラウは、あの娘の手に、自分から鼻を伸ばしていた。この九年、私のほかには誰にも懐かなかった犬が、である。
「……お前、返事をしたのか」
グラウが、尻尾をぱたりと振った。
「したのか」
ぱたり。
「お前は『おやすみなさい』と言われた。私は『おやすみなさいませ』だった」
グラウは目を細めて、私の膝に顎を載せ直した。どう見ても、勝ち誇った顔だった。
「……ひとつ、負けたな」
言ってから、自分が何を言ったのかに気づいて、私は咳払いをする。誰も聞いていない部屋で。
九年、戦場でも一度も取り乱したことのない男が、犬を相手に、いったい何を張り合っているのだろう。
ふと見ると、グラウの口の端に、大麦が一粒ついていた。
この犬は、私の椀からは何ももらっていない。
「……厨房で、何をもらった」
グラウは、大麦の粒を舌で器用に回収して、何も知らない顔で目を閉じた。
買収されたな、と思った。
それにしても、と私は思った。
あの娘の目は、きれいな菫色だった。
霜降り村の南の斜面に、雪解けの朝だけ咲く小さな花がある。誰にも頼まれず、誰にも見られずに、雪の下から咲く花だ。十六の春に一度だけ見て、それきり見ていない。あの娘の目は、あの花と同じ色をしていた。
その目が、少しも揺れずに私を見て、こう言ったのだ。
「ご自分だけ、暖かくなさらないんですね」
薪が一本しかないことも、外套を着ないことも、書状を一行も読み飛ばさないことも。この九年、誰ひとり口にしなかった。ギルバートでさえ、黙っていてくれた。それが、あれなりの優しさだと知っている。
なのに、あの娘は全部言ってしまった。「胸が震えています」などと言いながら。
あのとき私は、思わず窓のほうを向いた。窓の外は暗くて、何も見えない。それでも、あの娘の顔を見ているよりは、ましだった。
三ヶ月で送り返すと言ったのは、私だ。それなのに、さっきから、あの娘のことばかり考えている。
セラフィーナ。婚姻の書状には、そう書いてあった。
口の中でその名をなぞりかけて、私はやめた。名を呼んでしまったら、きっと、送り返せなくなる。
書状の四行目は、まだ読めてもいないのに。
*
私は執務室の灯りを落として、塔のいちばん上の私室へ上がった。空の椀を、なんとなく手に持ったまま。
窓を細く開けると、冷たい夜気が頬を撫でた。雪に埋もれた城の向こうに、七つの村の灯がぽつぽつと見える。今夜は、ひとつも消えていない。
寝台を見ると、毛布が一枚しかない。
自分で命じたことだ。命じたときには、ここまで寒いとは思わなかった。
窓を閉めて床に膝をつき、いつものように、十二の名をひとりずつ数えた。
グラウが、背中に寄りかかってくる。左側から。いつもの重さだ。
この犬は、九年、私の左側にしか来ない。右へ回れと言っても、来ない。理由は知らない。訊いたことがないからだ。
けれど今夜は、胸の奥に、もうひとつ別の重さがあった。名を数え終えても、それは消えなかった。消えてほしいとも、思わない。そう思わない自分が、少しだけ怖い。
私は空の椀を持って、厨房へ下りることにした。
階段の途中の暗がりに、誰かが立っていた。足音の軽さで、誰なのかはわかる。それでも、振り返らなかった。振り返れば、きっと余計なことを言ってしまう。うまかった、とか、また作ってくれ、とか。辺境伯が、預かりものの王女に言う言葉ではない。
厨房には、誰もいなかった。洗い場に椀が六つ、きちんと同じ向きに伏せてある。
竈の脇の石の上に、拭いた木の皿が一枚。縁の向きまで、きっちり揃えて置いてある。
この城で、皿の縁の向きまで揃える男は、ひとりしかいない。
……では、さっき階段の暗がりにいたのは。
うまかった、と口に出さなかった自分を、少しだけ褒めることにした。
私は自分の椀を洗う。
布巾は、竈の脇に、きっちり四つ折りで重ねてあった。ギルバートの畳み方だ。一枚抜けば、明日の朝、あれが何も言わずに畳み直す。何も言わずにやられるのが、いちばんこたえる。
袖で拭いて、六つの椀の隣に伏せた。
それから、紙を一枚取る。
本当に書きたい言葉は、わかっていた。短い言葉だ。けれど、どうしてもペンが動かなかった。この九年、誰にも言ったことのない言葉だったからだ。
だから、書けることを書いた。
――塩が足りん。
最後の一画で、インクが一滴落ちた。書き直そうかと思ったが、紙はもう一枚しかない。ということにして、そのままにした。
嘘ではない。けれど、少しずるい。
懐から、膏薬の小壺を出した。毎晩、自分の手のあかぎれに塗っているものだ。
振ると、中で残りが片寄る音がした。半分もない。薬草を煮直せるのは、雪が解けてからだ。
骨には効かない。皮膚の傷には効く。ないよりはましだろう。兵が怪我をしたら薬を渡すのと、同じことだ。
そう自分に言い聞かせて、紙の隣に置いた。自分の手の割れ目は、春まで放っておけばいい。
ついでに何か書き添えようとして、「明日も」と書いたところで、ペンが止まった。
明日も、何だというのだ。
私はその端を千切って、懐にしまった。
大きな竈の前に行くと、グラウが先に回りこんで、冷たい灰の前で丸くなった。子犬のころ、ひと冬だけ、ここで寝ていた犬だ。まだこの竈に火が入っていたころの話だ。
「……お前も、待っていたのか」
私は灰を掻き出して、薪を三本、細いものから順に組んだ。何年もやっていないのに、手のほうが組み方を覚えていた。
火打石は、棚の上にある。手を伸ばせば届く。
でも、私は触らなかった。
この火を入れるのは、私ではない気がした。少なくとも、今夜は。
*
裏口の戸の隙間から、細く灯りが漏れていた。外の見張り小屋だ。
戸を開けると、若い門番のカールが、槍を抱えたまま居眠りをしていた。足元の火鉢は、ほとんど灰になっている。見張りの夜には、必ず一度こうなる男だ。
肩を叩くと、カールは跳ね起きて、槍の柄を小屋の壁にぶつけた。
「か、閣下っ」
「寝るな、カール」
カールの顔が、真っ青になった。叱られると思ったのだろう。叱るつもりはなかった。
「北の夜は、眠った者から連れていく。九年前、私はそれを見た。お前を、その数に入れるつもりはない」
「は、はい……」
「厨房の小さい竈に、熾火が残っている。交代したら、当たっていけ」
「はいっ」
私は火鉢の脇の籠から炭をひとつ取って、火鉢に足した。赤い火が、灰の底から息を吹き返す。自分の部屋の暖炉には、この九年、一度も足したことのない炭だった。
戸を閉めようとして、ふと手が止まった。
「カール」
「は、はいっ」
「……今夜の厨房のスープは、悪くなかった」
カールは、ぽかんと口を開ける。何の話か、さっぱりわからないという顔だ。
私にも、よくわからなかった。ただ、誰かに言いたかったのだ。
言わなければよかった、と思ったときには、もう遅かった。
「戻るぞ、グラウ」
グラウは厨房の竈のほうを一度振り返ってから、私の後ろについてきた。爪の音が、階段をついてくる。九年、毎晩そうだ。
階段を上りながら、私は、もうひとつ大事なことを思い出した。
「おやすみなさいませ、閣下。グラウも、おやすみなさい」
あの娘が先に呼んだのは、私のほうだった。
「……順番は、私が先だったな」
グラウが立ち止まって、こちらを振り返る。呆れた顔をしていた気がする。
まあいい。今夜は、それでよしとすることにした。




