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お飾り聖女と氷の辺境伯と、名前を忘れない神さま〜推しの隣に、座りたい〜  作者: 真白のあ
第二章 塩が足りん

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第15話 閑話 三本の薪




 あの娘が出ていくと、執務室には、スープの椀がひとつ残された。


 湯気が、まっすぐに立っている。私の部屋の暖炉では、あの湯気ひとつ揺らせないだろう。そう思うと、少し情けなかった。


 膝の上のグラウが、ふん、と鼻を鳴らした。早く食べろ、と言っているのだ。辺境伯が犬に急かされているのだから、世話はない。


「わかっている」


 私は匙を取って、ひと口すくう。


 匙を口へ運ぶたびに、グラウが鼻の頭を持ち上げて、こちらを見る。珍しいものを見る顔だ。


 実際、珍しいのだろう。この犬は、私が温かいものを食べるところを、ほとんど見たことがない。


 階段を運ばれてくるあいだに、スープはちょうどいい熱さになっていた。それでも、喉を通るときに少し痛んだ。温かいものを、長いあいだ口にしていなかったせいだろう。


 蕪と大麦と茸の、素朴な味がした。


 十六の冬に、霜降り村で同じような椀を差し出されたことがある。娘を亡くしたばかりの父親が、黙って渡してくれた椀だった。そこまで思い出したところで、私は考えるのをやめた。


 手を止めたら、もう食べられなくなりそうな気がしたのだ。だから私は、子どものように急いで、最後まで食べた。


 気がつくと、椀は空になっていた。


 腹が鳴ったから食べただけだ。そういうことにしておこう。


 空の椀を眺めながら、私は今夜のことを考えた。


 誰が仕組んだのかは、すぐにわかる。マルタは麓の村へ出ている。留守の厨房を開けたのはオットーあたりで、ギルバートが毒見をして扉を開けたのだ。明日になれば、二人とも涼しい顔で「私が勝手にやったことです」と言うに違いない。この九年、城の中で私を出し抜けたのは、マルタとギルバートだけだった。


 今夜、そこにもうひとり加わる。


    *


 それから私は、あの娘の右手のことを思い出した。


 甲が赤紫に腫れて、真ん中が黒ずんでいる手。あれは打ち身ではない。骨にひびが入っている。それも、転んで手をついたひびではない。上から靴底で踏まれて、ねじられた手だ。兵の怪我を何度も見てきたから、それくらいはわかる。


 そんな手で、あの娘は鍋を持ち、盆を運んできたのだ。私のために。


「床を磨いていると、よくあることです」


 あの娘は、そう言って笑った。


 床を磨いていて、骨にひびは入らない。そこまでは言えた。誰が踏んだのかも、言えた。


 言えなかったのは、その先だ。笑ってすませることに、すっかり慣れてしまった顔に、何と言えばよかったのか。


 言葉なら、いくらでも持っているはずなのに。帝国の使者を、半日で黙らせたこともある。それなのに、あの娘の前に立つと、なぜか何ひとつ出てこなかった。


 理由は、考えないことにした。


 かわりに、ひとつ決めた。三ヶ月のあいだ、この城では、あの手に重いものを持たせない。桶も、薪もだ。預かりものを傷めて返すわけにはいかない。領主として、当然のことだ。


 ギルバートに言えば、あれは眼鏡を押し上げて「もう手配してございます」と言うだろう。それが少し、面白くない。


    *


「おやすみなさいませ、閣下。グラウも、おやすみなさい」


 あの娘は、そう言って出ていった。


 その挨拶を思い返していて、私は、あることに気がついた。


 私には「おやすみなさいませ」。グラウには「おやすみなさい」。


 犬のほうが、ひとつ親しいのだ。


 しかもグラウは、あの娘の手に、自分から鼻を伸ばしていた。この九年、私のほかには誰にも懐かなかった犬が、である。


「……お前、返事をしたのか」


 グラウが、尻尾をぱたりと振った。


「したのか」


 ぱたり。


「お前は『おやすみなさい』と言われた。私は『おやすみなさいませ』だった」


 グラウは目を細めて、私の膝に顎を載せ直した。どう見ても、勝ち誇った顔だった。


「……ひとつ、負けたな」


 言ってから、自分が何を言ったのかに気づいて、私は咳払いをする。誰も聞いていない部屋で。


 九年、戦場でも一度も取り乱したことのない男が、犬を相手に、いったい何を張り合っているのだろう。


 ふと見ると、グラウの口の端に、大麦が一粒ついていた。


 この犬は、私の椀からは何ももらっていない。


「……厨房で、何をもらった」


 グラウは、大麦の粒を舌で器用に回収して、何も知らない顔で目を閉じた。


 買収されたな、と思った。


 それにしても、と私は思った。


 あの娘の目は、きれいな菫色だった。


 霜降り村の南の斜面に、雪解けの朝だけ咲く小さな花がある。誰にも頼まれず、誰にも見られずに、雪の下から咲く花だ。十六の春に一度だけ見て、それきり見ていない。あの娘の目は、あの花と同じ色をしていた。


 その目が、少しも揺れずに私を見て、こう言ったのだ。


「ご自分だけ、暖かくなさらないんですね」


 薪が一本しかないことも、外套を着ないことも、書状を一行も読み飛ばさないことも。この九年、誰ひとり口にしなかった。ギルバートでさえ、黙っていてくれた。それが、あれなりの優しさだと知っている。


 なのに、あの娘は全部言ってしまった。「胸が震えています」などと言いながら。


 あのとき私は、思わず窓のほうを向いた。窓の外は暗くて、何も見えない。それでも、あの娘の顔を見ているよりは、ましだった。


 三ヶ月で送り返すと言ったのは、私だ。それなのに、さっきから、あの娘のことばかり考えている。


 セラフィーナ。婚姻の書状には、そう書いてあった。


 口の中でその名をなぞりかけて、私はやめた。名を呼んでしまったら、きっと、送り返せなくなる。


 書状の四行目は、まだ読めてもいないのに。


    *


 私は執務室の灯りを落として、塔のいちばん上の私室へ上がった。空の椀を、なんとなく手に持ったまま。


 窓を細く開けると、冷たい夜気が頬を撫でた。雪に埋もれた城の向こうに、七つの村の灯がぽつぽつと見える。今夜は、ひとつも消えていない。


 寝台を見ると、毛布が一枚しかない。


 自分で命じたことだ。命じたときには、ここまで寒いとは思わなかった。


 窓を閉めて床に膝をつき、いつものように、十二の名をひとりずつ数えた。


 グラウが、背中に寄りかかってくる。左側から。いつもの重さだ。


 この犬は、九年、私の左側にしか来ない。右へ回れと言っても、来ない。理由は知らない。訊いたことがないからだ。


 けれど今夜は、胸の奥に、もうひとつ別の重さがあった。名を数え終えても、それは消えなかった。消えてほしいとも、思わない。そう思わない自分が、少しだけ怖い。


 私は空の椀を持って、厨房へ下りることにした。


 階段の途中の暗がりに、誰かが立っていた。足音の軽さで、誰なのかはわかる。それでも、振り返らなかった。振り返れば、きっと余計なことを言ってしまう。うまかった、とか、また作ってくれ、とか。辺境伯が、預かりものの王女に言う言葉ではない。


 厨房には、誰もいなかった。洗い場に椀が六つ、きちんと同じ向きに伏せてある。


 竈の脇の石の上に、拭いた木の皿が一枚。縁の向きまで、きっちり揃えて置いてある。


 この城で、皿の縁の向きまで揃える男は、ひとりしかいない。


 ……では、さっき階段の暗がりにいたのは。


 うまかった、と口に出さなかった自分を、少しだけ褒めることにした。


 私は自分の椀を洗う。


 布巾は、竈の脇に、きっちり四つ折りで重ねてあった。ギルバートの畳み方だ。一枚抜けば、明日の朝、あれが何も言わずに畳み直す。何も言わずにやられるのが、いちばんこたえる。


 袖で拭いて、六つの椀の隣に伏せた。


 それから、紙を一枚取る。


 本当に書きたい言葉は、わかっていた。短い言葉だ。けれど、どうしてもペンが動かなかった。この九年、誰にも言ったことのない言葉だったからだ。


 だから、書けることを書いた。


 ――塩が足りん。


 最後の一画で、インクが一滴落ちた。書き直そうかと思ったが、紙はもう一枚しかない。ということにして、そのままにした。


 嘘ではない。けれど、少しずるい。


 懐から、膏薬の小壺を出した。毎晩、自分の手のあかぎれに塗っているものだ。


 振ると、中で残りが片寄る音がした。半分もない。薬草を煮直せるのは、雪が解けてからだ。


 骨には効かない。皮膚の傷には効く。ないよりはましだろう。兵が怪我をしたら薬を渡すのと、同じことだ。


 そう自分に言い聞かせて、紙の隣に置いた。自分の手の割れ目は、春まで放っておけばいい。


 ついでに何か書き添えようとして、「明日も」と書いたところで、ペンが止まった。


 明日も、何だというのだ。


 私はその端を千切って、懐にしまった。


 大きな竈の前に行くと、グラウが先に回りこんで、冷たい灰の前で丸くなった。子犬のころ、ひと冬だけ、ここで寝ていた犬だ。まだこの竈に火が入っていたころの話だ。


「……お前も、待っていたのか」


 私は灰を掻き出して、薪を三本、細いものから順に組んだ。何年もやっていないのに、手のほうが組み方を覚えていた。


 火打石は、棚の上にある。手を伸ばせば届く。


 でも、私は触らなかった。


 この火を入れるのは、私ではない気がした。少なくとも、今夜は。


    *


 裏口の戸の隙間から、細く灯りが漏れていた。外の見張り小屋だ。


 戸を開けると、若い門番のカールが、槍を抱えたまま居眠りをしていた。足元の火鉢は、ほとんど灰になっている。見張りの夜には、必ず一度こうなる男だ。


 肩を叩くと、カールは跳ね起きて、槍の柄を小屋の壁にぶつけた。


「か、閣下っ」


「寝るな、カール」


 カールの顔が、真っ青になった。叱られると思ったのだろう。叱るつもりはなかった。


「北の夜は、眠った者から連れていく。九年前、私はそれを見た。お前を、その数に入れるつもりはない」


「は、はい……」


「厨房の小さい竈に、熾火が残っている。交代したら、当たっていけ」


「はいっ」


 私は火鉢の脇の籠から炭をひとつ取って、火鉢に足した。赤い火が、灰の底から息を吹き返す。自分の部屋の暖炉には、この九年、一度も足したことのない炭だった。


 戸を閉めようとして、ふと手が止まった。


「カール」


「は、はいっ」


「……今夜の厨房のスープは、悪くなかった」


 カールは、ぽかんと口を開ける。何の話か、さっぱりわからないという顔だ。


 私にも、よくわからなかった。ただ、誰かに言いたかったのだ。


 言わなければよかった、と思ったときには、もう遅かった。


「戻るぞ、グラウ」


 グラウは厨房の竈のほうを一度振り返ってから、私の後ろについてきた。爪の音が、階段をついてくる。九年、毎晩そうだ。


 階段を上りながら、私は、もうひとつ大事なことを思い出した。


「おやすみなさいませ、閣下。グラウも、おやすみなさい」


 あの娘が先に呼んだのは、私のほうだった。


「……順番は、私が先だったな」


 グラウが立ち止まって、こちらを振り返る。呆れた顔をしていた気がする。


 まあいい。今夜は、それでよしとすることにした。


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