↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
お飾り聖女と氷の辺境伯と、名前を忘れない神さま〜推しの隣に、座りたい〜  作者: 真白のあ
第二章 塩が足りん

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
16/77

氷の辺境伯は、自分だけ暖まらない(六)

 部屋へ行く前に、厨房へ戻った。


 兵士たちはもういなかった。椀が五つ、洗って伏せてある。私の分まで。オットーさんだろう。五つとも、同じ向きだった。


 鍋の底に、まだひと椀ぶん残っていた。


 蕪を剥いてくれた人は、たぶん、今夜も何も食べていない。毒見でひと匙含んだだけだ。


 椀によそって、木の皿で蓋をする。竈の熾火のそばの、温かい石の上に置いた。紙の切れ端に一行だけ書いて、皿に載せる。


 ――毒見の方へ。


 鍋を洗って、竈の火を灰で埋める。明日の朝まで熾火が残るように。大聖堂で毎晩やっていたことだ。


 グラウは、ついてこなかった。閣下のそばに残った。


 洗い場の水は、指が痛むほど冷たい。それでも、竈の奥の赤い色を見ていると、王都の井戸水ほどには冷たくない気がした。


    *


 西棟の廊下の角で、ギルバートさまと鉢合わせた。


「見回りです」


 私が何か言う前に、そうおっしゃる。蕪のお礼を言って、一歩踏み出したところで、つま先が敷石に引っかかる。


 転ぶ、と思ったときには、もう肩を支えられていた。立たされて、手が離れるまで、瞬きひとつぶんもなかった。


「西棟の四枚目は、昔から浮いております。明日、直させます」


 まるで帳簿を読み上げるような声。それから手燭を私に持たせて、ご自分は暗い廊下を、灯りもなしに戻っていかれた。足音が、一度も乱れない。


 原作で、何度も読んだ背中だった。灯りの外を、ひとりで歩いていく背中。


(……人気投票二位の、足さばき)


 手燭を胸の前に抱えて、部屋の扉を開けた。


 西棟の部屋は、物置小屋よりずっと立派だった。


 寝台があって、窓には硝子が嵌まっている。暖炉に火はない。それくらいは、何ということもない。


 寝台の上に、毛布が二枚あった。


 一枚は、きちんと畳んで枕元に。


 もう一枚は、足元に。畳まずに、放るように。


 運んだ人が、置いたところを誰にも見られたくなかったみたいに。


 私はそれを丁寧に畳み直して、それから、また広げた。


 窓の外では、まだ雪が降っていた。


 落ちてくる雪の一片一片が、どこかの窓の灯りを受けて、落ちる途中で一度だけ光る。何千も、何万も。暗い空の中で、順番に灯って、消えていく。


 塔のいちばん高い窓の灯りだけが、ひとつ、消えずにあった。


 窓枠の外の隅に、何かが二つ、丸くなっている。


 山鳩だった。道標のところで見た二羽だろうか。暗くてわからない。風の当たらない隅で、身を寄せ合っている。


 麻袋の底の包みを開けた。麦の粒が、まだ少し残っている。


 窓をほんの少しだけ開けて、枠の隅にひとつまみ置く。羽には触れないように。すぐに閉めた。


「明日の朝、食べてね」


 鳩は動かない。眠っているのかもしれない。


 寝台の脇に膝をついて、手を組んだ。十年あまり、毎晩そうしてきたように。


「神さま。今日も一日、ありがとうございました。長い一日でした。雪道を歩いて、鳩に麦をやって、城壁を撫でて、グラウに会って、推しの生のお声を聞いて、スープを作りました」


『うむ。……推しのお声は、スープより先なのじゃな』

「起きた順です」

『そうかのう』


「……閣下は、食べてくださったでしょうか」


 返事は、すぐにはなかった。


 窓の向こうで、雪が北の夜を白く埋めていく。


 やがて、百合の香りが、ほんのかすかに満ちた。


『明日の朝、厨房へ行ってごらん。それだけじゃ』


「神さまは、いつも、いちばん大事なところを言ってくださいませんね」


『言うたら、楽しみがなくなるじゃろう』


 目を閉じたまま、少しだけ笑う。


 二枚の毛布にくるまって、久しぶりに、どこも痛まずに眠った。


 夜中に一度だけ、目が覚める。二枚目の毛布の重さに、体が慣れていなかった。


    *


 翌朝。


 まだ暗いうちに厨房へ下りると、棚に伏せた椀の列が、昨夜より二つ多かった。七つ。


 いちばん端のひとつは、縁まで拭いてあった。大麦の一粒も残っていない。


 竈の脇の石の上には、拭いた木の皿だけが重ねてある。紙切れは、なかった。


 その横に、紙片が一枚。角ばった硬い筆跡で、一行だけ。


 ――塩が足りん。


 紙の下の端が、少しだけ、千切れていた。


 両手で、胸に抱いた。


(食べてくださった)


(全部)


(そして、文句を書いてくださった)


『文句を書くというのはな』


 神さまが、おっしゃる。


『明日も食べる、ということじゃ。あの子は九年、誰の料理にも文句を言わなんだ。言うほど、食べておらんかったからのう』


 紙片の隣に、もうひとつ置いてある。


 親指ほどの、陶器の小さな壺。蓋を開けると、薬草の匂いがした。膏薬だ。紙片には、壺のことは一行も書いていない。ただ、椀の隣にあった。


 両手で包む。冷たい。蓋の縁だけが、少し擦り減っている。


 長いあいだ、誰かが毎晩、開けては閉めてきた壺だった。


(誰が)


『さあのう』


 わざとらしい、とぼけ方だった。


 それから顔を上げて、気づく。


 いちばん大きな竈の、白い灰が、きれいに掻き出されていた。脇の灰桶に、こんもりと。黒い石が剥き出しになった真ん中に、乾いた薪が三本。細いものから順に、きちんと組んである。


 火は、入っていない。


 ただ、いつでも入れられるように、組んであった。


 灰桶の縁に、細い毛が一本、引っかかっている。灯りにかざすと、銀色に光った。


 グラウの毛だろう。グラウは灰色だけれど、灯りによっては、銀にも見える。


 私はそれを指でつまんで、灰桶の中に落とした。


 誰が、夜のうちにここへ来たのだろう。


『それも、言わん』


「何も聞いていません」


『顔が、聞いておった』


 階段のほうから、爪の音がした。一段ずつ、ゆっくりと。


 グラウだった。厨房の入口で鼻を上げて、私を見て、それから組んだ薪の前まで歩いてくる。そこに、どさりと横になった。


 尻尾で、床を一度打った。


 窓の外で、北の空が少しだけ白み始めている。


 窓枠の隅の麦は、なくなっていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。