氷の辺境伯は、自分だけ暖まらない(六)
部屋へ行く前に、厨房へ戻った。
兵士たちはもういなかった。椀が五つ、洗って伏せてある。私の分まで。オットーさんだろう。五つとも、同じ向きだった。
鍋の底に、まだひと椀ぶん残っていた。
蕪を剥いてくれた人は、たぶん、今夜も何も食べていない。毒見でひと匙含んだだけだ。
椀によそって、木の皿で蓋をする。竈の熾火のそばの、温かい石の上に置いた。紙の切れ端に一行だけ書いて、皿に載せる。
――毒見の方へ。
鍋を洗って、竈の火を灰で埋める。明日の朝まで熾火が残るように。大聖堂で毎晩やっていたことだ。
グラウは、ついてこなかった。閣下のそばに残った。
洗い場の水は、指が痛むほど冷たい。それでも、竈の奥の赤い色を見ていると、王都の井戸水ほどには冷たくない気がした。
*
西棟の廊下の角で、ギルバートさまと鉢合わせた。
「見回りです」
私が何か言う前に、そうおっしゃる。蕪のお礼を言って、一歩踏み出したところで、つま先が敷石に引っかかる。
転ぶ、と思ったときには、もう肩を支えられていた。立たされて、手が離れるまで、瞬きひとつぶんもなかった。
「西棟の四枚目は、昔から浮いております。明日、直させます」
まるで帳簿を読み上げるような声。それから手燭を私に持たせて、ご自分は暗い廊下を、灯りもなしに戻っていかれた。足音が、一度も乱れない。
原作で、何度も読んだ背中だった。灯りの外を、ひとりで歩いていく背中。
(……人気投票二位の、足さばき)
手燭を胸の前に抱えて、部屋の扉を開けた。
西棟の部屋は、物置小屋よりずっと立派だった。
寝台があって、窓には硝子が嵌まっている。暖炉に火はない。それくらいは、何ということもない。
寝台の上に、毛布が二枚あった。
一枚は、きちんと畳んで枕元に。
もう一枚は、足元に。畳まずに、放るように。
運んだ人が、置いたところを誰にも見られたくなかったみたいに。
私はそれを丁寧に畳み直して、それから、また広げた。
窓の外では、まだ雪が降っていた。
落ちてくる雪の一片一片が、どこかの窓の灯りを受けて、落ちる途中で一度だけ光る。何千も、何万も。暗い空の中で、順番に灯って、消えていく。
塔のいちばん高い窓の灯りだけが、ひとつ、消えずにあった。
窓枠の外の隅に、何かが二つ、丸くなっている。
山鳩だった。道標のところで見た二羽だろうか。暗くてわからない。風の当たらない隅で、身を寄せ合っている。
麻袋の底の包みを開けた。麦の粒が、まだ少し残っている。
窓をほんの少しだけ開けて、枠の隅にひとつまみ置く。羽には触れないように。すぐに閉めた。
「明日の朝、食べてね」
鳩は動かない。眠っているのかもしれない。
寝台の脇に膝をついて、手を組んだ。十年あまり、毎晩そうしてきたように。
「神さま。今日も一日、ありがとうございました。長い一日でした。雪道を歩いて、鳩に麦をやって、城壁を撫でて、グラウに会って、推しの生のお声を聞いて、スープを作りました」
『うむ。……推しのお声は、スープより先なのじゃな』
「起きた順です」
『そうかのう』
「……閣下は、食べてくださったでしょうか」
返事は、すぐにはなかった。
窓の向こうで、雪が北の夜を白く埋めていく。
やがて、百合の香りが、ほんのかすかに満ちた。
『明日の朝、厨房へ行ってごらん。それだけじゃ』
「神さまは、いつも、いちばん大事なところを言ってくださいませんね」
『言うたら、楽しみがなくなるじゃろう』
目を閉じたまま、少しだけ笑う。
二枚の毛布にくるまって、久しぶりに、どこも痛まずに眠った。
夜中に一度だけ、目が覚める。二枚目の毛布の重さに、体が慣れていなかった。
*
翌朝。
まだ暗いうちに厨房へ下りると、棚に伏せた椀の列が、昨夜より二つ多かった。七つ。
いちばん端のひとつは、縁まで拭いてあった。大麦の一粒も残っていない。
竈の脇の石の上には、拭いた木の皿だけが重ねてある。紙切れは、なかった。
その横に、紙片が一枚。角ばった硬い筆跡で、一行だけ。
――塩が足りん。
紙の下の端が、少しだけ、千切れていた。
両手で、胸に抱いた。
(食べてくださった)
(全部)
(そして、文句を書いてくださった)
『文句を書くというのはな』
神さまが、おっしゃる。
『明日も食べる、ということじゃ。あの子は九年、誰の料理にも文句を言わなんだ。言うほど、食べておらんかったからのう』
紙片の隣に、もうひとつ置いてある。
親指ほどの、陶器の小さな壺。蓋を開けると、薬草の匂いがした。膏薬だ。紙片には、壺のことは一行も書いていない。ただ、椀の隣にあった。
両手で包む。冷たい。蓋の縁だけが、少し擦り減っている。
長いあいだ、誰かが毎晩、開けては閉めてきた壺だった。
(誰が)
『さあのう』
わざとらしい、とぼけ方だった。
それから顔を上げて、気づく。
いちばん大きな竈の、白い灰が、きれいに掻き出されていた。脇の灰桶に、こんもりと。黒い石が剥き出しになった真ん中に、乾いた薪が三本。細いものから順に、きちんと組んである。
火は、入っていない。
ただ、いつでも入れられるように、組んであった。
灰桶の縁に、細い毛が一本、引っかかっている。灯りにかざすと、銀色に光った。
グラウの毛だろう。グラウは灰色だけれど、灯りによっては、銀にも見える。
私はそれを指でつまんで、灰桶の中に落とした。
誰が、夜のうちにここへ来たのだろう。
『それも、言わん』
「何も聞いていません」
『顔が、聞いておった』
階段のほうから、爪の音がした。一段ずつ、ゆっくりと。
グラウだった。厨房の入口で鼻を上げて、私を見て、それから組んだ薪の前まで歩いてくる。そこに、どさりと横になった。
尻尾で、床を一度打った。
窓の外で、北の空が少しだけ白み始めている。
窓枠の隅の麦は、なくなっていた。




