第14話 閑話 帳簿に載せないもの
西棟へ、毛布を一枚。
閣下のご命令だ。理由はお尋ねしない。お尋ねはしないが、帳簿はつける。それが私の役目で、性分でもある。
どの毛布を、とだけ伺った。閣下は書状から目を上げずに、顎で奥の私室を示された。
ご自分の寝台の、上の一枚を。
去年の秋、王都の毛織物商から取り寄せた一枚だ。北の羊より毛が細く、目が詰んでいる。値は、城の毛布の六枚分。閣下に、と申し上げて三度断られ、四度目に寝台へ押しこんだ。
それが、西棟へ行く。
帳簿には、こう書くことになる。毛布一枚、閣下私室より西棟へ。理由、記さず。
理由を記さない行が私の帳簿に増えるのは、気に入らない。
九年分のご命令なら、帳簿に何冊もある。穀物庫を開けよ。村へ薪を回せ。坑夫に麦を。どれも領地のためだった。
ひとりの人間が、今夜、寒くないように。そういうご命令は、どの頁にもない。
王女の部屋は空だった。
寝台の脇に、麻袋がひとつ。口は紐で縛ってある。中は見ない。見ないが、床に置いたときの沈み方で、だいたい分かる。
十年分の荷にしては、軽い。
枕元に、城の毛布が一枚。薄い。西棟の北壁は、隙間風が抜ける。
持ってきた一枚を、隣に畳もうとした。角を合わせたところで、手が止まった。
きちんと畳めば、誰が置いたかわかる。この城で毛布の角まで揃えるのは、私ひとりだ。
わかって困る理由は、ない。
ない、はずだった。
広げ直して、足元に置いた。放るように。
眼鏡を押し上げて、部屋を出た。
西棟の廊下の角で、鉢合わせた。
「ギルバートさま」
灰紫の髪に、厨房の湯気の匂いが残っている。
「見回りです」
「お疲れさまです。蕪、ありがとうございました。皮が、一度も切れていなくて」
あの人は、礼を言うときの顔で笑う。
一歩踏み出したつま先が、浮いた敷石に掛かる。
肩を受けた。
軽い。
立たせて、手を離した。
「西棟の四枚目は、昔から浮いております。明日、直させます」
「す、すみません」
手燭を、あの人に持たせた。
「私は、暗くても歩けますので」
あの人は何度か振り返りながら、扉の中へ入っていく。
扉が、閉まる。
窓の外で、軒の雪が落ちる音がした。
手袋の中で、指を握った。握ったものは、何もない。
毛布のことは、言わなかった。
閣下のご命令です、と言えば済むことだった。事実でもある。
ただ、足元の一枚まで、そう言う気にはなれなかった。
*
厨房へ下りたのは、明日の薪の残りを帳簿と突き合わせるためだ。
そういうことにしておく。
灯りは落ちていた。竈の熾火だけが赤い。
洗い場に、椀が五つ。兵が四人と、王女がひとり。向きまで揃っているのは、オットーの仕事だろう。
竈の脇の、温かい石の上に、蓋をした椀がひとつあった。紙切れが載っている。
――毒見の方へ。
字が、右に傾いていた。腫れた手で書いたのだ。
名前ではなく、役目で宛ててある。
役目で呼ばれることなら、毎日ある。この城の誰もが、私を役目で呼ぶ。それで不足を感じたことは、一度もない。
ただ、役目で呼ばれて、胸のどこかが静かになったのは、久しぶりだった。
……いや。久しぶり、ではない。初めてかもしれない。そこまで考えて、やめた。
蓋を取ると、湯気がまだ細く上った。熾火のそばに置いてあったのだ。私がいつ来るかも、来るかどうかも、あの人は知らなかったはずだ。
ひと匙。九年の癖で、舌の上に留めた。
留めてから、その必要がないことに気づいた。閣下の椀は、もう確かめてある。これは、誰のためにも確かめなくていい椀だ。
蕪は、私が剥いたものだった。
二匙目は、ただ食べた。
塩は、ほとんど入っていない。壺の底の分では、そうなる。
それなのに、薄くない。
理由が分からない。分からないものを、私の帳簿は嫌う。
三匙目で、考えるのをやめた。
椅子を引いて座る。厨房で座って食べるのが、いつ以来か。思い出すのは、やめた。
九年、閣下の毒見をしてきた。召し上がらない夜も、最初のひと匙だけは欠かさずに。冷めてゆく椀の、最初のひと匙だけを。
温かい椀を底まで食べたのは、今夜が初めてだった。
明日、礼を言うべきだろうか。
言えば、あの人はまた、さっきの行儀のいい顔で笑うだろう。
閣下の話をするときの顔なら、執務室で見た。あれは、礼を言う顔とは、まるで違っていた。
これは、帳簿には載せない。
オットーの五つは、どれも、ほんのわずかに右へ傾いて伏せてある。
直したくなった。
直さなかった。椀を洗って、伏せた。向きは、オットーに合わせる。
紙切れは、上着の内側にしまった。胸の、いちばん平らなところに。捨てる理由が、見つからなかった。
*
階段の途中で、足を止めた。
上から、閣下が下りてこられる。灯りも持たず、手に椀をひとつ。後ろに、グラウが一段ずつ。
私は暗がりへ一歩退いた。
すれ違いざま、窓の雪明かりで、椀の中が見えた。
空だ。一粒も、残っていない。
よかった、と思う。
眼鏡を外して、拭いた。今夜、二度目だ。
食べない方ではない。食べなければ、北の冬は越せない。
ただ、九年、椀が来れば冷めるまで放っておかれて、書状の合間に、半分だけ流しこまれる。腹を保たせるためだけの食べ方だ。残りは、いつも私が下げた。
温かいうちに、底まで。そういう椀を、私は九年、一度も見たことがなかった。見たかった。ずっと。
それを空にしたのは、私ではない。
あの人が作ったのは、閣下のための鍋だった。私の椀は、その底に残った、ひと椀ぶんだ。
それで、足りる。
足りると、思うことにした。
どちらへ、とはお尋ねしない。お尋ねすれば、あの方は引き返される。乳兄弟として二十五年、それだけは確かに学んだ。
足元に放ってきた毛布のことを、思った。
あれを畳まなかった理由は、考えないことにした。
手袋の指を、一本ずつ直す。
今夜、帳簿に載せないものを、指を折って並べる。
閣下の寝台から、毛布が一枚、減ったこと。
九年、閣下の膝を離れなかった犬が、厨房へ下りていったこと。
蕪の皮が、一度も切れずに剥けたこと。これは、私の手柄だ。
閣下の椀が、空だったこと。
四本目を折ったところで、残りの一本が、勝手に動いた。
折らずに、手袋の中に握りこんだ。
胸の内側で、紙が小さく鳴った。
毒見の方へ。
あの人の字で、私の役目が、そこに書いてある。




