第12話 氷の辺境伯は、自分だけ暖まらない(三)
◆ 冷たい竈
厨房は、城の北側の半地下にある。
場所は、知っている。原作の見返しに、この城の見取り図が載っていたから。前世で、何度も指でなぞった図だ。
螺旋階段を駆け下りて塔を出ると、後ろから、慌てた足音が追ってきた。王都から来た生贄の姫が、辺境伯の執務室から飛び出して城の中を走っているのだ。警備の兵士なら、追いかけないわけにはいかない。
石造りの広い部屋に、大きな竈が三つ。左から順に、大、中、小。けれど火が入っているのはいちばん右の小さな竈だけで、それも赤い熾火がわずかに残っているだけだった。
私は立ち止まって、三つの竈を見る。
いちばん大きな竈の灰は、白く、乾いていた。指で触れると、さらさらと崩れる。一日や二日の灰ではない。ずいぶん長いあいだ、この竈には火が入っていないのだ。真ん中の竈も同じだった。灰の上に、埃が薄く積もっている。
(三つのうち、一つしか使わない。この広さの城で)
竈の数は、その家が何人の腹を満たすつもりで建てられたかを語る。この城は、大勢で食べるために建てられた。今、その竈のふたつが、冷えている。
天井から吊るされた干し肉は数えるほどしかなく、棚の麻袋も、ほとんどが口を縛られたままぺしゃんこになっている。
追ってきた兵士たちは、厨房の入口で立ち止まった。捕まえるはずの姫が、竈の前にしゃがみこんで、頬をふくらませて熾火に息を吹きかけ始めたのを見て、どうしたらいいのかわからなくなったらしい。
年かさのほうの兵士だけが、立ち止まったまま、私が火を吹くのを、じっと見ていた。何かを思い出している人の目。
犬は厨房に入ると、迷わず、いちばん大きな冷たい竈の前に歩いていって、そこにどさりと横になった。
「グラウ、そこは冷たいですよ」
犬は答えなかった。目を閉じて、鼻を、冷たい灰のほうに向けている。
まるで、昔はそこが温かかったことを、覚えているように。
「あの、王女さま。そこで何を」
「お夕食を作ります。閣下が、まだ召し上がっていないので。薪はどこにありますか?」
兵士たちは顔を見合わせた。若いほうが、年かさのほうを見る。年かさのほうは、白髪まじりの短い髪で、顔の左側に古い凍傷の痕があった。
「薪は、裏の小屋に。でも、節約するようにと、ギルバートさまが。この冬は、竈ひとつに一日五本までって。朝は、ゆうべの熾火を灰から掘り出して、湯を沸かすだけです。新しい薪は、夕方の一回しか入れません。……それも今日は、マルタさんが麓の村へ岩塩をもらいに出てて、三日いないんで。みんな、冷たい黒パンだけです」
「五本、ですか」
私は、大きな竈の白い灰を見た。
「この大きな竈は、いつから火が入っていないんですか」
若い兵士が、少し困った顔をする。
「俺が兵になってからは、一度も。四年です。ルッツって言います、俺。あの、オットーさんなら、もっと前から知ってる」
年かさの兵士――オットーさんは、すぐには答えない。
「九年前の春からだ」
それだけ、言う。
その春。原作を読んだ私には、その意味がわかった。
けれど今は訊かなかった。訊いてはいけない場所に、まだ足を踏み入れるときではない。
「では、この小さな竈ひとつだけにします。小さな鍋ひとつ分だけ。五本もいりません。三本あれば、スープはできます」
オットーさんは、しばらく迷うように私を見ていた。それから、犬を見た。冷たい竈の前で目を閉じている、灰色の犬を。
それから黙って裏口を出ていき、両腕いっぱいに薪を抱えて戻ってきてくれる。三本どころではない。
「俺が勝手にやったってことに、してください。乾いたのを選んできました。割りたてのは、煙ばっかり出るんで」
「ありがとうございます」
私が笑うと、オットーさんはきまり悪そうに鼻の頭を掻く。それから、また犬を見た。
「あの犬が、この竈の前で寝てるのは、初めて見た」
「初めて、ですか」
「俺が城に上がったのは、あの春だ。それまでは、村の炭焼きだった。上がったときには、もう、この竈は冷たかった」
「ひと冬だけ、ここで寝てたって、俺は聞きました」
ルッツが、口を挟んだ。
「閣下に拾われた冬です。まだ子犬で、この竈の前がいちばん暖かかったから、毎晩ここで丸くなってたって。春に火が消えて、それきり、来なくなったって。厨房の婆さんが、俺が新入りの頃、水を汲みに来るたびに、その話をしてました」
私は、冷たい竈の前で目を閉じている犬を見た。
ひと冬。子犬だった頃の、たったひと冬。それを、ずっと、覚えていたのだ。
オットーさんは、それ以上、何も言わなかった。
棚を探すと、少しの大麦と、しなびかけた蕪が三つ、玉葱が二つ、それから干した茸がひと握り見つかった。塩の壺には、底のほうにだけ白いものが残っている。
私は麻袋の底から、小さな白い塊を出した。王都の料理長が包みに入れてくれた、岩塩のかけら。壺の底の塩と合わせれば、鍋ひとつ分にはぎりぎり足りる。
十分だ、と思った。大聖堂の厨房の残り物で十年暮らしてきた私には、これはずいぶん豊かな食材だった。
鍋に水を張り、熾火に薪をくべる。細いのから。小さな炎が、ぱち、ぱち、と音を立てて少しずつ大きくなっていく。乾いた薪の音だった。厨房の冷たい空気の中に、ほんのりと木の燃える匂いが広がる。
冷たい竈の前の犬が、鼻をひくりと動かして、目を開けた。
それから、のそりと立ち上がって、火の入った小さな竈の脇に歩いてきて、私の足のすぐ隣に、また、どさりと横になった。今度は、火のほうに腹を向けて。
オットーさんとルッツは、入口の外の廊下まで下がって、そこに立った。見張っているのか、待っているのか、自分たちでも決めかねている顔だった。
厨房は広い。竈は、いちばん奥にある。
蕪の皮を剥こうとして、小刀を握った。右手は、まだ腫れている。指を握りこむと、手の甲の皮膚がぱつんと突っ張って、骨のあたりに、みしりと鈍く響いた。
左手に持ち替える。刃が、蕪の上で滑る。二度目も、滑った。三度目で、ようやく、皮より厚い身が、ごろりと剥がれた。
「――貸しなさい」
横から、黒い革手袋の手が伸びてきて、小刀を取り上げる。
銀縁の眼鏡。
ギルバートさまだった。いつ厨房に入ってきたのか、わからなかった。
「ギルバートさま」
「閣下のお口に入るものです。何が入るのか、見ておくのが、私の仕事ですので」
ギルバートさまは、手袋を外して調理台の端に置き、蕪を手に取る。
刃が、蕪の上を、途切れずに回る。皮が、薄く、一本の紐になって、まな板の上に落ちていく。一つ目。二つ目。三つ目。息をするあいだに、白い蕪が三つ、並んでいた。
「……お上手です」
「閣下の食事の毒見を、ずっとしております。毒見をする者は、皮の内側に何が隠れているかも、見なければなりませんので」
それが本当の理由かどうかは、わからなかった。
「その手では、蕪より先に、指を剥きます。刻むのは、まな板に押しつければ左手でも済む。皮は、宙で刃を回さねばなりません」
ギルバートさまは小刀を、刃を私から遠ざける向きで、まな板の上に置く。それから、手袋をはめ直す。指の一本一本まで、きちんと。
「毒見のときに、また参ります」
振り返らずに、厨房を出ていく。
白い蕪が三つ、まな板の上に残る。皮の紐は、どれも一度も途切れていなかった。
ふわり、と百合の香りがした。




