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第8話 遠くから呼ぶ声

* * *


喉の熱はまだ引かない。その熱が何なのか、聞く相手も、聞く言葉も、ジョウにはまだなかった。


「消耗しているときは、無駄に声を出さない方がいい。余計に削れる」


ヨシの前を歩いていたトウゴが、振り返りもせずに低い声で言った。

ジョウは不思議そうに問いかける。


「……何が削れるんだ?」

「声だ」


トウゴはそれ以上、何も語らなかった。

ヨシがジョウの隣に並び、何も言わずに手を差し出した。

掌に、包み紙に小さく「はちみつ」と書かれた琥珀色の飴玉が一つ転がっている。


「唇の内側、切れてるでしょ。声を出しすぎると、そうなるんだ」

ジョウは反射的に自分の唇に触れ、口内をそっと舐めると――


「……これ、治るのか?」

「治るよ。でも、次はもっと早く切れるかな」

「慣れたら傷付かなくなるのか?」

「ん。まあね」


ヨシは相変わらず穏やかなトーンで言った。

大学の構内を進む。だが、足が向いていたのは正門とは真逆の方向。

講義棟の裏手を抜け、普段は学生が立ち入らない古い建物の脇を通る。

ジョウにとっては全く馴染みのないルートを歩いていた。

やがて、トウゴは古びた鉄扉の前で足を止めた。

中央に無骨な鍵穴が一つある。

そこへ向かってトウゴが声を――ごく小さく放った。

音というよりも、吐き出された息に近い響きのようにジョウは感じた。

刹那、群青の光が鍵穴に吸い込まれるように触れた瞬間

カチャリと重々しい音がして扉が開いた。


「……普通の鍵穴にも、その声の鍵って使えるのか」

「ここは術式でしかあかない。他の者に入られては困る」


そうトウゴが先に中へと入っていく。

警戒しているジョウの背中をヨシが軽くポンと押した。


*


扉をくぐると、すぐに地下へと続く階段があった。

階段を下りた先に見えたのは、お世辞にも広いとは言えない一室だった。

しかし室内にはスチール製の机や棚が並び

見慣れない精密な機材がいくつも設置されている。

生活感と業務感が奇妙に混在しており

誰かがここで長い時間を過ごしている気配が色濃く漂っていた。


「拠点、というほど大層な場所じゃないけどねー」


室内を物珍しそうに見回すジョウの視線に気づき、ヨシが言った。


「大学の中にいくつか点在している拠点の一つ。封印空間での任務が終わったら、ここで報告を上げるんだ」

「報告って?」

「組織に提出する、今日起きたことの記録だよ。

どんな異形の影が、何体どこに出現したか。使用した声紋の種類と、その消耗度。それから――」


ヨシが、そこで少しだけ言葉を区切った。


「関与した、未登録の素質者の情報をね」


ジョウは、その言葉の意味を頭の中で噛み締めた。


「……ワシのことも、報告するのか?」

「ジョウの件は報告せざるを得ない」


トウゴが棚から書類のようなものを取り出しながら言った。


「鳴り方からしてお前の声紋はミッド(中音域)。あまり見かけない素質者だ」


やはり、こちらを振り返りはしない。

――手を止めた一瞬、トウゴの視線が書類の上で止まった。


「……色も、妙だ。ミッドでゴールドは、聞いたことがない」


ヨシも何も言わなかったが缶コーヒーを取り出す手が、ほんの一瞬だけ止まった。


「しかし、お前をこの拠点に連れてきたこと自体、本来ならルール違反だ。未登録の素質者を立ち入らせるには、本来は本部の許可がいる」

「じゃあ、なんでワシをここに?」

「よっさんが連れて行くと言ったからだ」


トウゴはそれきり口を閉ざした。ただ、書類を棚に仕舞う手が、心なしかゆっくりに見えた。理由までは、ジョウにはわからなかった。


「じゃあ、今回のやつ、本部にサクッと報告しておくね~」


ヨシは何もないコンクリートの壁に向かうと、右手の人差し指を口元に添えるや

鋭い白銀の長い鍵が出現し、彼はその中央部分を滑らかに握り直す。


「オープン」


ヨシの声に応じて、壁に小さな光の裂け目が走り

見たこともない形状の扉が現れて左右に開いた。

向こう側から優しい風が舞い込んでくるが

光の密度が強すぎて奥の景色までは見通せない。

ヨシはその扉の隙間に白銀の鍵をスッと差し込み、短く告げた。


「――レゾレータ」


ほんの数秒の出来事だった。

白銀の鍵が光となって消滅すると同時に扉も音もなく閉じ

何事もなかったかのように何の変哲もない壁へと戻る。

手品のような一連の動作に、ジョウはただ目を見開いた。

と、ジョウの頭の奥で、何かが不意に蠢いた。

さっき戦闘中に見た断片の続きではない。

もっと前――もっと、精神の深い場所にある記憶。

何も見えなかった。ただ、指先だけが妙に冷たい。

遠くで、誰かが息を潜めている気配がする。

小さな背中が、すぐそこにあるような――そんな確信だけ。

どこからか声が聞こえた。 自分のものでも、すぐ傍にいる二人のものでもない。

それは遥か遠くから響いてくるような声。


『急げ。時間がない』


誰の声かはわからない。けれど、ワシはこの声を知っている――。


「――お前」


トウゴの声が耳に届き、ジョウの意識は現実へと引き戻された。

気が付けば、じっとジョウの顔をトウゴが覗き込んでいた。


「顔色が悪いぞ?」

「大丈夫……何か見えたんだ。後ろ姿が、少しだけ。あと、誰かがワシを呼ぶ声が聞こえた」


ヨシは、何も言わなかった。

いつもの表情のまま、缶コーヒーの結露を指先で拭っている。

ただ、その指の動きが――ほんの少しだけ、止まっていた。


「よっさんは、知ってるんじゃないのか?」

「――何を?」

「ワシの記憶のこと。あの扉の事……さっき自己紹介した時も、何かしらを知ってる顔に見えたんだ」


ヨシは答えなかった。

ほんの少しの間、部屋を無言が支配する。


「……今はね、色々と言えないことがあるんだなぁ」


それは不誠実なはぐらかしではなかった。

ただ純粋に「今は言えない」という事実を伝えてきている。

そのニュアンスの違いが、ジョウにははっきりと伝わった。


「いつか、言える時が来るのか?」

「言える時が来たら……言う、かな?」


ヨシの態度は拒絶しているわけではない。ただ、静かに頷いた。

ジョウはそれ以上、ヨシを追及するのをやめた。

今ここで無理に聞き出そうとしても、答えは返ってこないと分かったからだ。


(この人は、やっぱりワシの過去を知っている……)


少し考えたが、答えは最初から決まっていた。

ジョウには、幼少の頃の記憶が酷く曖昧な部分がある。

ヨシの近くにいれば、いつか自分の本当の生い立ちが分かるかもしれない。

それに、何よりも――。


(さっき記憶の中で聞こえた声、よっさんの声に、どこか似ていた気がする)


それが単なる気のせいなのか、それとも真実なのか。

突き止めたいという衝動が、ジョウの胸を突いた。


「……また、ここに来てもいいか?二人の助けになるなら、ワシも協力したい!」


ジョウの突然の問いかけに、二人が同時に顔を上げた。

ヨシがジョウを見て、ふっと笑う。

口角だけを上げるいつもの笑い方――だが今度は、目尻にまでその笑みが伝っていた。


「来ていいよ」


ヨシの即答な答えに棚の整理を続けていたトウゴが、

手元を動かしたままぶっきらぼうに言葉を挟んできた。


「……ただし、ルールだ。通うなら、正式に登録しろ。それだけは頭に叩き込んでおけ」

「分かった」

「分かった、ではない。手続きが必要になるんだと言っている」

「じゃあ、その手続きをする」


トウゴがピクリと手を止め、ようやくこちらを振り返った。

眉間には相変わらず深い皺。だが何も言わず、棚へ向き直る。

その手が、さっきより少しだけ丁寧に書類を並べ始めた。

ヨシが冷蔵庫から缶コーヒーを一本、机の上を滑らせてジョウの手元へと届けた。


「とりあえず、今日はお疲れさま」

「……おぅ、ありがと」


ジョウがキンキンに冷えた缶を受け取り、ふと視線を向けた窓の向こう。

いつの間にか、キャンパスの空には深い夕暮れが訪れていた。


「もう夕方だ。飯にするぞ。腹減った!」

「え、もう飯なの? ごーちゃん、早くない?」

「文句あるのか」

「ないです!」「ないよー」


ジョウが即答し、ヨシも笑顔で応じる。

その明るさの底で、「死ぬ」という二文字だけが、まだ胸の底に重く沈んだままだった。

三人の足音が夕闇に包まれ始めたキャンパスに、小さく響き渡った。


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