第6話 声が鍵になった日
* * *
「……君。キミ、大丈夫?」
肩を揺すられて、ジョウは我に返った。
頬が濡れている。いつの間にか、涙が顎まで伝っていた。
目の前に、白シャツの青年の顔がある。眉が下がって、さっきまでの笑みはどこにもなかった。
中庭の芝の上だった。
地面には色が戻り、夕方の風が汗を冷やしていく。掌にはもう何もない。
それでも、握っていたものの重さだけが、指の腹に残っていた。
誰も、すぐには喋らなかった。
「……あんたら、何なんだ」
口をついて出たのは、それが精一杯の問いだった。
間抜けな質問だと思ったが、他に言葉が見つからなかった。
「鍵まで出しておいて、質問する立場か」
小柄な青年が、厳しい目で振り返る。
「だって、ワシ、何も知らんし」
「知らないなら、なおさら首を突っ込むな」
「でも、突っ込んじゃったもんは、しょうがないし」
青年の眉間に深い皺が寄った。言い返そうと口を開く。
その前に、白シャツの青年がひらりと割って入った。
「まあまあ」
飄々と宥めながら、どこか楽しそうに、ジョウへ手を差し伸べてくる。
ジョウはその手を掴んで立ち上がった。
「僕たちはね、この世界に入ってきた怪物を倒す、ヒーローみたいなことをやってるんだ」
「……何だよ、それ」
答えはなかった。白シャツの青年は、手をすぐには離さなかった。
何かを確かめるように、ジョウの手を少し持ち上げ、その甲をじっと見つめている。
「一応、名前、聞いてもいい?」
「か、鍵城ジョウ。一年」
青年の指が止まった。視線がジョウの顔に上がり、また手へ落ちる。
「ジョウ、か」
噛み締めるような声だった。
ジョウの声が形になった鍵が、さっきまで確かに、その掌にあった。
「へえ」
唇が、わずかに弧を描く。笑っているような、そうでないような。
けれど今度は、確かに親しみの混じった笑みだった。
「僕はヨシ。三年。声紋鍵は『トレブル』、高音域。みんなには『よっさん』って呼ばれてる」
それだけ伝える。声紋鍵が何なのか、ヨシは説明しなかった。今は要らない、とでも言うような顔で、隣を振り返る。
「ごーさんは?」
「……俺は、よっさんと違って、すぐ馴れ合うつもりはない」
「名前くらい言えばいいのに。守ろうとしたんだから、最後まで責任取ったら?」
「うるさい」
ジョウは、小柄な青年を見た。
青年は頑なに目を合わせず、視線を逸らしたまま、ぶっきらぼうに言った。
「……トウゴ。二年。鍵は『バス』、低音域だ」
「じゃあ、ごーさんで」ジョウがぽつりと言う。
「よっさんも、そう呼んでたし」
「……好きにしろ」
トウゴは、ジョウから距離を取るように数歩離れ、そっぽを向いた。
ヨシはその背中を、また少しだけ楽しそうに見ていた。
「なあ。あの仮面の男のこと、知ってるのか?」
ジョウの問いに、ヨシは少し間を置いた。
「前に、噂で聞いたことがある。クラヴィスって呼ばれてる」
言い終えるより早く、ヨシの視線が伏せられた。
その横顔を、トウゴがじっと見ていた。何も言わない。
ただ、目だけがヨシを離れなかった。
風が、三人の間を抜けていく。
ジョウは、喉に手を当てた。
「……あんたらが言ってた、その鍵。奪われたら、人はどうなるんだ」
ヨシとトウゴが目を合わせ、ジョウを見た。最初に口を開いたのは、トウゴだった。
「死ぬ」
喉に触れた指先に、さっきの感触が蘇った。
あの男の指が触れる、直前。冷たい、拒むことを許さない気配。
その二文字は皮膚の感覚として、胸に刺さった。
掌の下では、淡い金色の振動が、まだ小さく震えている。
「あの男は、それを知ってて、奪おうとしてるのか」
「たぶん、知ってるんじゃないかな」
ヨシの声は、どこまでも静かだった。
「あの人にとってはね、人の鍵も命も、ただのコレクションなんだよ」
それ以上、誰も口を開かなかった。
ジョウは立っているのがやっとだった。声を出しただけなのに、
なぜ身体がこんなに重いのか、まだ理解が追いつかない。
「とりあえず、来て」
不意に、ヨシが言った。理由の説明はなかった。
ジョウは黙って、二人の後ろについて歩き出した。
中庭を抜けかけたところで、フェンスの向こうで、何かが動く気配があった。
視線を感じた気がして、ジョウはそれを確かめないまま、二人の背中についていく。喉の奥はまだ熱を残していた。
「……あの力は、危険すぎる」
風に紛れるほどの呟きだった。
ジョウが顔を向けた時には、もう誰もいなかった。
トウゴの足が、ほんの一瞬だけ止まる。ヨシの視線も、同じ方向を掠めた。
けれど二人は何も言わない。あえて流したかのような歩き方だった。
その意味を読み解くには、今のジョウは、まだ何も知らなさすぎた。
気のせいだ、と思おうとした。思おうとするたびに、喉が小さく鳴っていた。




