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第5話 共鳴する声と祓えない傷

* * *


錆びた金属と埃の匂いが、喉の奥にざらりと張り付いた。

靴底は薄く、地面の冷たさが骨の芯まで這い上がってくる。

足の感覚が、少しずつ遠のいていく。

この扉の向こうに、大切な人がいる。

静けさは重く、耳の奥で自分の鼓動だけが大きく響く。

目の前には、自分よりずっと大きな扉がそびえている。息を潜めるように、

ただそこに佇んでいた。

中央の鍵穴に指を近づけただけで、滲み出す冷気に産毛が逆立つ。

小さな手は、思わず引っ込んだ。


「わ、ワシの声で……本当に開くの?」


幼い声は確かに自分のものなのに、どこか他人の口調を借りているようで、

据わりが悪かった。

けれどその「誰か」は、今ここにはいない。


「ああ。お前になら、出来る」


すぐ後ろに立つ声が、背中を押した。

振り返らなかったのは、振り返る必要がないと。

頭ではなく胸のどこかが知っていたからだ。

その声が降ってくると、腹の底に沈んでいた不安が、すっと軽くなる。


「この扉を開ければ、お前の大切な人が救われる」


喉の奥がひとりでに緩んだ。

なのに指先だけは、何故か冷たいままだった。


「やめておけ」――そう囁いてくれる何かを、心のどこかで探していた。

でも、見つからなかった。

遠くで、誰かが自分の名を呼んだ気がした、けれどその声が届くより先に、小さな手は鍵穴へと伸びていた。


指先が金属の縁に触れる。ヒヤリとした感触が、腕を伝って肩まで駆け上がる。

喉の奥が震えた。見覚えのない衝動に戸惑いながら、足は迷いなく前へ出ている。

声が溢れた。

軋む音とともに、扉の向こうから圧倒的な気配が押し寄せる。それは光でも風でもなく、肌にのしかかる質量そのものだった。


触れた。

息が、止まる。


後ろから手を引かれ、体が傾いた次の瞬間には、腕の中だった。

抱きしめられた腕の袖口から、赤いものが一滴、自分の手の甲に落ちた。

耳元で、誰かが何かを言った。聞き取れない。

鼻先に、何かが触れ――


腕の温もりが、指の隙間からこぼれるように薄れていく。

気づけば、抱きしめられていた筈の形だけが、空気の中に残っていた。


* * *


(……何だ、今の)


瞬きほどの間だった。

目の前では、白銀の鍵と群青の鍵がジョウの金色に呼応して震えている。

やめた方がいい――そう警告する身体を振り切って、ジョウは口元を覆った。


(声が届くなら――二人を助けたい!)


ジョウはゆっくりと手を緩め声を響かせた。

気づいたときには、すでに声が出ていた。

言葉になる前の、高音でも低音でもない、芯の響く声。


今度は――何の言葉か、分かる気がした。


その喉から淡いゴールドの光が溢れ出し、形を成していく。

ジョウの眼前の空間に「線」が走った。細い金色の光が縦に横に幾筋も奔る。

線は互いに結ばれ、扉の型を象った巨大な長方形をなって、

ジョウの頭上に幾つも浮かび上がった。


ジョウは淡く光る右手を上げていた。というより、上がっていたの方が正解なのかもしれない。


「待て!お前のその力は――!」


小柄な青年の叫びが飛ぶ。悲鳴に近い制止だった。

けれど、その声はジョウの耳を素通りしていく。

知らない筈の言葉が、既に喉の奥まで来ていて。


唇が、ひとりでに動く。


「オープン――」


次の瞬間、頭上の扉が、轟音とともに開け放たれた。

鼓膜が潰れそうな圧。扉の向こうから吹き出したものが、空気ごと世界を押し広げていく。

錆びた金属と、埃の匂い。

知っている。この匂いを。ジョウは知っていた。


奔流は仮面男を真正面から飲み込み、無音の地面の上を何メートルも押し流した。異形の大群も次々と消え去る。

ジョウには、何が起きたのか分からなかった。

扉は始まりと同じ唐突さで閉じ、光の粒となって消えた。

膝から力が抜け、ジョウはこの場に座り込む。


遠くで、小柄な青年が壁に手をついて立ち上がるのが見えた。

白シャツの青年が、扉の消えた空を見上げている。その横顔から笑みが抜け落ちていた。

唇が、声にならない形で一度だけ動く。何と言ったかは読み取れなかった。

けれどすぐに、見間違いかと思うほど、いつもの穏やかな顔に戻っている。


「ごーさん、大丈夫?」

「……俺はいい。よっさんは、あいつから目を離すな」


低い声が、短く返す。

白シャツの青年は小柄な青年に小さく頷き、ジョウの方へ視線を戻す。


「素晴らしい……!」


吹き飛ばされた先で、仮面の男がゆっくりと身を起こした。

外套は裂け、仮面の縁には亀裂が走っている。それなのに、口元は笑っていた。


「鍵が共鳴している。お気づきですか?」


男に喉を指されたジョウはハッとして喉元に目を落とす。

淡い金色の光が、かすかに、けれど確かに揺らめいていた。

それは二人の鍵の光に引き寄せられるかのように、健気に鳴っていた。

群青と白銀の鍵は、ジョウを挟んで低く、鋭く、響き合っていた。


仮面の男は、ジョウを見つめた。

「封印されたまま共鳴する鍵……そしてお二人とこの『繋がり』。興味深い」


仮面男の口から底の見えない笑みが零れる。

男の視線が、ジョウの喉元から離れた。何処か遠くを見るような色が、浮かんでは消えた。


「今日のところは、ここまでにしましょうか。もっと良い状態の貴方達をこの目で見たいので」


穏やかで丁寧な、日常の挨拶のような声だった。


「また今度。次は、もう少しゆっくりとお話できると嬉しいですね」


男の影が闇に溶けてゆく。

空間が大きく波打ち、仮面の男は、跡形もなく消え失せた。

じわり。と世界に色が戻ってくる。遮断された音が、鼓膜へ還ってくる。

夕方の瑞々しい風が、キャンパスを吹き抜けた。


白シャツの青年が、ジョウの隣にそっとしゃがみ込んだ。


「喉、大丈夫?」

「……大丈夫。触れられてない」

「そっか。よかった」


白シャツの青年は深く安堵の息を吐いた。張りつめていた肩から、力が抜けていく。

その間、自分の腕の傷には、一度も目を向けなかった。

ジョウの喉の光が、激しく揺らめいた。導かれるように、白銀の鍵が鋭く伸び、群青の鍵が地を這って躍動する。

三つの光が、同じ一点へと収束してゆく。

ジョウの右手に残っていた金色の残光も、光の粒になって、その流れに加わった。

光は粒子になってほどけ、そこから、音が生まれた。


低く、澄んで、重なり合う音。

三つの声が揃って初めて鳴る、重厚な和音だった。


「……綺麗」


ジョウの口から言葉が、気づけば零れていた。

魂ごと洗われるような響きだった。やがて、それはゆっくりと静寂に溶けていく。

代わりに聞こえて来たのは、そよぐ風と、草の擦れ合う音。ごく普通の、世界の音だった。


ジョウは立ち上がろうとして、膝に手をついたまま、動けなかった。

たった一回、声を放っただけなのに、身体の芯まで空っぽになっている。


「……終わった、か」


壁に背を預けた小柄な青年が、長く息を吐いた。

白シャツの青年が、そこで初めて自分の左腕に目を落とす。

袖口の赤の周りに、和音の残響が淡い光となって滲んでいた。

傷は塞がりきっていないが、確かに浅くなっている。


「……傷が!」

思わず、ジョウの口から漏れた。


「うん。ちょっとだけ、ね」


白シャツの青年は、笑って腕を軽く振って見せた。

そして、ジョウには聞こえないくらいの小さな声で、ひとりごとのように呟く、


「開けるだけじゃ、祓いきれないもんね……」


聞こえてしまった。けれどジョウは、聞こえなかったふりをした。

今の自分に、その意味を聞く資格がない気がしたからだ。

ただ、一つだけ、はっきり分かっていることがあった。

影たちの前に踏み出したのは、鍵でも、声でもない。

未だ震える自分の足だ。

二人を助けたいと思ったのは、確かに、自分だった。


「……助かった。ありがとう」


白シャツの青年が、静かに言った。

それは礼の言葉なのに、どうしてか、ひどく慎重な声だった。

その時、ジョウの頭の奥で、何かがパチンと弾けた。


* * *


薄暗い通路。大きな扉の前に、自分が立っている。

後ろの声が、今度は聞き取れた。


「この扉を開ければ、お前のお母さんが救われる。お前の声なら開けられるんだ」


内緒で自分をこの場所に連れて来たその声を、自分は信じていた。

疑いもしなかった。ただ必死で助けたかった。

蘇ったのは、自分を抱きしめた腕の温かさだけだった。


でも、その温かさの持ち主の名前は、思い出せなかった。

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