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第39話 音のある静寂

*


それからしばらく、誰も喋らなかった。

ヨシはトウゴに支えられたまま、壁に背を預けて床に座り込んでいた。

ジョウはその隣に寄り添い、傷だらけの掌を、パーカーの袖を引っ張って押さえている。トウゴは二人の前にしゃがみ、両腕を膝に乗せたまま、床の一点を見つめていた。

部屋には、静寂があった。綴の「音が奪われた虚無」とは違う。

三人の呼吸の音が、ちゃんとある静寂だった。


「……その、手」


ヨシが掠れた声で、ジョウの袖に隠れた手を見た。


「ああ、これ? 大丈夫、大丈夫。ちょっと浅く切れただけだからさ」

「大丈夫なわけないよ。『だけ』なんて言うな」


ヨシの声が、いつもより低かった。取り繕うような軽さは、そこにはなかった。

トウゴが無言で立ち上がり、部屋の隅の棚から古びた救急箱を引っ張り出して、ジョウの前に置いた。


「……自分で巻け」

「あ、ありがと、ごーさん」

「礼はいらん」


ジョウは包帯を取り出したが、片手が血で滑って、うまく巻けない。見かねたトウゴが、舌打ちをした。 そして再びしゃがみ込み、ジョウの手首を掴んだ。荒っぽいのに、痛みは与えない力加減だった。無言のまま、手際よく巻いていく。


「……ごーさんって、実は結構やさし――」

「喋るな。軸がずれる」

「はい……」


ジョウは素直に口を閉じた。 ヨシが、その様子を見ていた。口角が、ほんの少しだけ上がる。


「ごーさん、首、まだ血が出てるよ」

「知っている」

「拭かないの?」

「後でいい」

「後ではよくないよ」


ヨシが、トウゴの首筋へ手を伸ばした。トウゴの身体が一瞬だけ強張ったが、

その手を拒まなかった。

ヨシは救急箱から取ったガーゼを、傷口にそっと押し当てた。

ジョウは包帯を巻かれながら、二人を見比べた。

いつもなら即座に拒むはずのトウゴが、ヨシの手を受け入れている。

それが、妙に新鮮だった。


「……ジョウ、怖かった?」


処置をしながら、ヨシがぽつりと訊いた。ジョウは少し天井を見上げて、

考えてから答えた。


「怖いっていうより……よっさんが中で必死に抗ってるのが、手を通して伝わってきたから。一秒でも早く、戻ってきてほしいって、それだけ思ってた」


ヨシは、答えなかった。ガーゼを押さえていた手が、静かに離れる。

出血は止まっていた。


「……綴《つづり》だな」

ジョウの包帯を結び終えたトウゴが、低く言った。

「分かってるよ」

「昨日、お前が出かけた先で仕掛けられた。なぜ一人で行った」


責める口調ではなかった。


「ごめん、軽率だったね。気づいたら、近くにいた。音が、しなかったから」

「連絡は」

「……声が、出なかったんだ」


トウゴはジョウの手を離し、まっすぐヨシを見た。


「お前が一人で抱え込むのは、今に始まったことではない。だがよっさん、今回は違う。お前の身体がジョウを襲い、お前の刃が俺の首を裂いた。一人の問題にするな」

「……ごーさん」

「謝罪はいらん。次からは、どんな些細な異変でも、俺たちに言え」


ヨシの瞳が、滲んだ。涙は流さなかった。

「……うん」

ジョウは、きれいに巻かれた自分の掌を見つめ、それから二人を見上げた。

「ワシも」

二人が、同時に顔を上げる。


「次からは、どんなことでもワシに言ってよ。封印が半分残ってて、戦力にならないかもしれないけど……それでも、三人でいたほうが、絶対にいいと思うんだ」

そう言って、ジョウはへへっと笑った。

「根拠はないけどね」

ヨシが、声を上げて笑った。口角だけの笑みではない。目も、眉も、笑っていた。

「根拠はないの~?」

「ないけど、ワシの直感がそう言ってる」

「やっぱり君は、典型的なB型だねぇ。考える前に身体が動いて、自分が正しいと思ったらどこまでも突っ走る」

「それ言うなら、ごーさんもよっさんも同じじゃんか」


トウゴが、膝の埃を払うように立ち上がった。


「こいつと一緒にするな」

「同じだってば。二人とも、さっきワシがピンチのとき、考えるより先に動いてたし」


トウゴは答えなかった。ただ、その口元が、照れ隠しのようにほんのわずか動いたのを、ジョウは見逃さなかった。


「……腹が減った」

あまりに唐突で、ジョウは目を丸くした。

「えっ、今それ言う!?」

「文句があるか」

「ないけどさ……」

「なら行くぞ」

「どこに」

「飯屋に決まっている」


トウゴは、振り返りもせず出口へ歩き出した。

ジョウがヨシと顔を見合わせると、ヨシは肩をすくめて立ち上がった。

足元が、まだ少しふらついている。

ジョウは何も言わず、その左側に寄り添って歩調を合わせた。

いつでも支えられるように。 ヨシはジョウの歩調に気づいたのか、小さく笑った。


「ジョウ」

「ん?」

「さっきは、ありがとう」

「何が?」

「名前を、何度も呼んでくれたこと。あの闇の底まで、ちゃんと聞こえていたから

」

ジョウは少し誇らしそうに笑って、前を向いた。


「そっか。それでよっさんが戻ってこられたなら、大正解だったね」


二人は、前を行く大きな背中を追いかけた。


「おい、早くしろ。置いていくぞ」

「待ってよ、ごーさん! 置いてくな!」

「待つ理由がない」

「ごーさん、意外と歩くの遅いから余裕で追いつくって!」

「……俺の足は遅くない」

「遅い遅い! ワシの半分くらいのスピードだよ!」

「お前の最高速度が異常なだけだ」


*


二人の口喧嘩が、前から聞こえていた。ヨシは、まだ少し重い足を運びながら、

その背中を追った。


(ありがとう、二人とも……)


声には出さなかった。出したら、涙が止まらなくなる気がした。


(他人を信じれば、いつか全部を失うことになる)


ずっと、そう思って生きてきた。その恐怖は、今も消えたわけではない。

けれど、あの闇の中で、名前を呼ばれた。ジョウが呼び続けた。

トウゴが、「ヨシ」と、壁も敬称も取り払って呼んでくれた。


(それでも――)


少し前を、二人が歩いている。くだらない口喧嘩をしながら、同じ歩調で。

その背中が、今夜は涙が出るほど、少しだけ眩しかった。

古びた研究棟を出ると、夜気が頬を撫でた。ひどく冷たかった。

けれど、三人の踏むアスファルトの上には、確かな『音』が響いていた。


* * *


ビルの縁に腰を下ろした少女の眼下を、三人の人影が歩いていく。


「あーあ……むかつくんだよね。あんな仲良しさん達、見てるとさー」


ヨシが隣の二人に笑いかけるのが見えた。少女の拳が、膝の上で白くなる。


「遊んじゃおっか。ねえ、カガリ。あんたも久しぶりに、あの子に会いたかったでしょ」


横目で笑いかけても、背後の男は答えなかった。冷え込む夜なのに、

その口元から白い息は上がっていなかった。


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