第37話 ずれたピッチ
* * *
翌日。
異変に気づいたのは、トウゴだった。
いつもと変わらない夕暮れ時。西日の差し込む研究棟の一室で、
三人はそれぞれの時間を過ごしていた。
ジョウは床に膝を抱えて座り、何事かを考え込んでいる。
トウゴは窓際で、古びた資料に目を落としていた。
そして、外出から戻ってきたばかりのヨシは、コンクリートの壁に背を預け、
缶コーヒーを口に運んでいる。
どこにでもある、いつものB-ブロードの日常。
だが、何かが違った。
トウゴは資料から視線を上げ、ヨシを見た。
缶を握る指先が、目に見えるほど微かに震えている。
「よっさん」
呼びかけると、ヨシは顔を上げて笑った。
いつもの笑い方だった。口角だけを器用に吊り上げる、あの笑み。
「なに、ごーさん」
声が、違った。
ほんの僅か。だがトレブルの使い手としては致命的なほど、ピッチがずれている。薄氷を踏むような、不安定な響きだった。
「昨日、どこにいた」
「ちょっと野暮用で出かけてただけさ」
「どこへだ」
「ただの散歩だよ〜」
嘘だ。
ヨシが嘘を吐くとき、視線が一瞬だけ左下へ流れる。
高校の頃から行動を共にしてきたからこそ知る、隠しきれない癖だった。
床にいたジョウが、弾かれたように顔を上げた。
「よっさん、顔色悪いよ。本当に大丈夫?」
「そう? 至って普通だけどねぇ」
「普通じゃない。なんか――」
ジョウが立ち上がろうとした、その刹那。
カラン、と缶が床に落ちた。
黒い液体が、コンクリートに広がっていく。
ヨシは、それに目もくれなかった。
目が、変わっていた。
笑っていない。戦うときの冷たい顔でもない。
何もなかった。瞳の焦点が、ふっと消えた。
「よっさん……?」
トウゴが立ち上がった次の瞬間、白銀の光が爆ぜた。
*
背中が壁にぶつかり、壁が砕けた。肺の空気が抜ける。
見えなかった。気づけば間合いを潰されていた。
白銀の切っ先が喉元へ迫る。皮膚を割る寸前、
トウゴは群青の鍵を横に滑り込ませた。
甲高い音が響き、白い光が散った。二つの光が、削り合うように震えている。
「……よっ、さ……ん……っ!」
喉から血の混じった声が漏れる。ヨシは、微塵も応じない。
凍りついたような無表情。その瞳はトウゴを通り抜け、
遥か奥の「何か」だけを見ているようだった。
操られているのか。
脳裏を、兄の顔がよぎった。
「よっさん!」
ジョウが踏み込む気配を見せる。喉の奥が、ちり、と鳴った。
それをトウゴが怒号で制した。
「離れろ! 来るな、ジョウ!」
直後、ヨシの手首が不自然な角度で返った。
白銀の鍵が軌道を滑らせ、トウゴの防御をすり抜けて、首筋に一線を刻みつける。
痛みを自覚するより早く、熱が皮膚の内側を駆け抜けた。
じわりと溢れた血が、シャツを赤く染めていく。
「ごーさん――っ!」
ジョウの足が前へ出た瞬間、ヨシの焦点のない視線が、獲物を定めるようにジョウへ跳ね上がった。
まずい。
(よっさん、悪い……っ!)
トウゴは思考を捨て、全体重を乗せた前蹴りでヨシの腹を蹴り抜いた。
体勢の崩れたヨシを引き剥がし、流血のまま二人の間に割り込む。
「来るなと言っている!」
咆哮に、ヨシの身体がぴたりと止まった。
ほんの一瞬。
その一瞬だけ、無機質な顔が、激しく歪んだ。
眉が悲痛に寄り、口元が震え、焦点のなかった瞳の奥に、人間の色が戻る。
「……ごーさん、ジョウ……」
掠れた声が、喉から漏れた。
ヨシの、本物の声だった。恐怖に震え、涙を堪えるような、
飄々とした仮面の奥に隠されていた声。
「逃げ……て……っ!」
懇願するように叫んだ直後、その表情が、すっと消えた。
人形の顔に、巻き戻る。
ジョウが、息を呑んだ。
トウゴは、血に濡れた首筋を押さえることも忘れ、その顔を見つめていた。
今のが、本物のヨシの最後の抵抗だったのだと、分かってしまった。




