第36話 握り潰された術式
* * *
数日後の夜、拠点に戻ったジョウは、トウゴの様子がいつもと違うことに気づいた。
理由はうまく言葉にできなかった。
いつも通り無愛想で、いつも通り資料を整理している。
なのに、ペンを持つ手の動きが、ほんの少しだけ硬い。
「ごーさん、なんか今日疲れてる?」
「気のせいだ」
即答だった。いつもより、ほんの一拍早い即答。
ジョウはそれ以上追及せず、自分の席に鞄を置いた。
その時、床に落ちていた小さな紙片が目に入った。
拾い上げてみる。びっしりと折れ皺のついた紙だった。
端に封印派の紋章らしきものが印刷され、
幾何学模様の術式図は、握り潰された皺のせいでほとんど読み取れない。
「……これ、何?」
ジョウが差し出すと、トウゴの手がぴたりと止まった。一瞬の間があった。
それだけで、ジョウには分かった。触れてはいけないものに触れてしまった、
という直感。
「捨てておけ」
「でも――」
「捨てておけと言っている」
低く、有無を言わせない声だった。
ジョウは黙って紙をゴミ箱に落とした。その動作の間、
トウゴの視線がずっとジョウの喉元――封印の割れた場所に注がれていたことに、
ジョウは気づいていた。
何かがあったのだ。自分の知らないところで。自分に関することで。
*
その夜、ジョウは眠れなかった。
天井を見上げながら、ゴミ箱に落としたあの紙のことを何度も思い返す。
ぐしゃぐしゃに握り潰された跡は、誰かが必死に何かをこらえた形のように見えた。
責めるつもりはなかった。ただ、気になった。気になって、どうしようもなかった。
(……ダメだ、気になって死ぬ)
ジョウは布団を撥ね除け、足音を殺して拠点の隅のゴミ箱まで歩いた。
トウゴはもう別室で休んでいる。今なら、誰にも見つからない。
紙を拾い上げ、机の隅の小さなランプの下で、そっと広げてみる。
術式図は、やはりほとんど読み取れない。しかし、その余白に、細く几帳面な文字で走り書きがあった。誰かが電話の内容を書き留めたような、断片的なメモ。
『声紋――莢と酷似』
『統護に実行させよ』
二行だけが、皺の間から読み取れた。
莢。誰だ、それは。そして、「統護に実行させよ」というのは――。
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
(これ……ワシに関係あることだよな……)
内容は断片的すぎて、全体像はまるで見えない。
それでも、この紙が意味するものの重さだけは、痛いほど伝わってきた。
自分の知らないところで、自分よりずっと大きな何かが動いている。
トウゴがあれほど硬い顔をしていたのも、きっとこのせいだ。
ジョウは震える指で、紙の折り目をできるだけ元の形に揃え直し、
誰にも気づかれないように、そっとゴミ箱の中へ戻した。
布団に潜り込んでからも、頭の中で「莢」という文字がずっと点滅していた。
(莢って……誰なんだ)
答えの出ない問いを抱えたまま、
ジョウは白み始めた窓の外をぼんやりと見つめ続けた。
喉の奥の熱が、いつもより少しだけ強い。まるで自分自身が、
何かの「歪み」の一部であるかもしれないと、
体のほうが先に知っているようだった。
その予感だけが、朝が来ても消えてくれなかった。




