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第35話 答え合わせの約束

*

深夜。

トウゴは、キャンパスの最奥にある旧研究棟――。

B-ブロードの拠点の一室を訪ねた。

ジョウは、そこにいた。

最近はバイトの帰りが遅くなるからと、ヨシから予備の鍵を渡され、

ここで寝泊まりすることが増えていた。

今夜、ヨシの姿はない。別の場所で用事があると言っていた。

トウゴにとっては、これ以上ない好都合だった。

ジョウは薄暗い床にぽつんと座り込み、ぼんやりと天井を見上げていた。

最近のあいつは、よくこの姿勢を取っている。

失われた記憶の断片を、暗闇の中から手探りで探すように、遠くを見つめていた。


「ごーさん? どうしたの、こんな時間に」


背後の気配に気づいて振り返ったジョウが、いつもと変わらない調子で言った。

警戒心は、一切ない。この男は、自分に対して最初から無防備すぎる。

その無防備さが、今のトウゴには重くのしかかった。

ポケットの中の術式が、やけに冷たく感じられる。堰から渡された封筒から出し、

折りたたんで持ち歩いていた紙だった。


「少しいいか」

「いいよ」


ジョウが床に手をつき、立ち上がろうとする。


「……座ってろ」


低く制し、座らせたまま、距離を詰めた。

ジャケットのポケットの中で、紙を握りしめる。

自分のバスの声紋鍵なら、すぐにでも発動できる。

たった一言、特定の音域で声を投げかければ、

ジョウの喉の封印は再び強固に施される。痛みはない。本人も気づかない。

ただ眠りに落ちるように、過去へ続く道が閉ざされる。

けれど、それを行えば、トウゴやヨシと過ごした日々の記憶まで、

すべて消える可能性があった。

術式に書き添えられた注記に、そう記されていたのだ。堰《せき》は、そのことには一言も触れなかった。

ジョウは床から、じっとトウゴの顔を見上げていた。


「なんか、すごい怖い顔してるね」

「……うるさい」

「いつもより、眉間のシワが深いよ」

「黙れと言っている」


ジョウが、ふっと小さく笑った。


「ごーさんってさ、怒ってるときと、ワシのこと心配してくれてるときの顔、全くおんなじだよね」


ポケットの中で、紙を握る手に、無意識に力がこもった。

視線が、一瞬だけジョウの顔から逸れる。逸らした先に何もないと分かっていながら、逸らさずにはいられなかった。


「……何を、言っている」

「だってそうだよ。ワシにきつい毒舌を言うときって、大体ワシが無茶しそうなときか、落ち込んでるときか、そのどっちかだからさ」


部屋が、静まり返る。ジョウは、穏やかな声で続けた。


「今日も、何かあったんでしょ? ワシのことで」


トウゴは、何も答えられなかった。


「記憶ね、少しずつ戻ってきてるんだ」


あまりにも唐突な告白だった。けれど、その声音はどこまでも静かだった。


「本当に、パズルのかけらみたいな断片なんだけどね。誰かの声とか、すごく冷たい扉の感触とか。でも、不思議と怖いとは思わないんだ。それよりも、知りたいって気持ちのほうが、今は何倍も強いから」

「……そうか」

「ごーさんは、ワシの過去、知ってるの?」


逃げ道のない、真っ直ぐな問いだった。

トウゴは答えを返さなかった。いや、返せなかった。


「知ってそうな顔してるからさ。よっさんとは、また違う感じで。よっさんは全部自分の目で見て知ってる顔だけど、ごーさんは、なんていうか、記録として知ってる顔」


鋭すぎる。

記憶は失われていても、この男の直感だけは本物だと、トウゴは思った。


「でも、教えてもらわなくていいよ」

「……え」

「今は、ね。ワシが自分で、ちゃんと思い出したいから。でも――」


ジョウが、トウゴの瞳を真っ直ぐに射抜いた。

混じり気のない、濁りのない瞳に、トウゴが映っている。


「ワシが全部思い出したとき、ごーさんが知ってることと答え合わせをさせてくれたら、それでいいから」


ポケットの中で、術式の紙が、強く握りしめられたままそこにあった。

論理的には、使うべきだった。

記憶が戻れば、ジョウは間違いなく危険に近づく。今ここで封じ込めれば、この男を安全な日常へ守り通せる。それは封印派としても、トウゴ個人の正義としても、正しいはずだった。

けれど目の前のジョウは、自分の意志で「知りたい」と言ったのだ。「自分で思い出したい」と、前を向いて笑ったのだ。

それを、また俺たちの都合で、力ずくで奪うのか。

トウゴは、ゆっくりとポケットから手を下ろした。

術式は、ついに発動しなかった。


「……覚えておけ」


胸の奥から、絞り出すように声を放つ。


「何を?」

「お前がそこまで言うなら、意地でも思い出せ。途中で止めるな」

ジョウが不思議そうに首を傾げた。

「それって、応援してくれてるの?」

「違う」

「絶対してるって」

「していない」

「今、声がすごく優しかったよ」

「……うるさい、黙れ」


トウゴは、これ以上引き止められないよう、即座に踵を返して出口の扉へ向かった。


「ごーさん」


背後から、あの澄んだ声が追いかけてくる。


「今夜ずっと、ワシを守ろうとしてくれてたでしょ」


トウゴは、二度と振り返らなかった。


「……さっさと寝ろ」


それだけを冷たく言い残し、部屋を出た。

静まり返った廊下で、トウゴはコンクリートの壁に背中を打ちつけた。

そして、ポケットの中の紙を、これ以上ないほどの力で握りつぶした。

使わなかったのではない。使えなかったのだ。

それが、仲間を巻き込んだことへの罪悪感なのか、

あの少年の未来を奪いたくないという自分自身の意志なのか。

その答えだけは、暗闇の中でいくら考えても、トウゴ自身にも分からなかった。


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