第35話 答え合わせの約束
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深夜。
トウゴは、キャンパスの最奥にある旧研究棟――。
B-ブロードの拠点の一室を訪ねた。
ジョウは、そこにいた。
最近はバイトの帰りが遅くなるからと、ヨシから予備の鍵を渡され、
ここで寝泊まりすることが増えていた。
今夜、ヨシの姿はない。別の場所で用事があると言っていた。
トウゴにとっては、これ以上ない好都合だった。
ジョウは薄暗い床にぽつんと座り込み、ぼんやりと天井を見上げていた。
最近のあいつは、よくこの姿勢を取っている。
失われた記憶の断片を、暗闇の中から手探りで探すように、遠くを見つめていた。
「ごーさん? どうしたの、こんな時間に」
背後の気配に気づいて振り返ったジョウが、いつもと変わらない調子で言った。
警戒心は、一切ない。この男は、自分に対して最初から無防備すぎる。
その無防備さが、今のトウゴには重くのしかかった。
ポケットの中の術式が、やけに冷たく感じられる。堰から渡された封筒から出し、
折りたたんで持ち歩いていた紙だった。
「少しいいか」
「いいよ」
ジョウが床に手をつき、立ち上がろうとする。
「……座ってろ」
低く制し、座らせたまま、距離を詰めた。
ジャケットのポケットの中で、紙を握りしめる。
自分のバスの声紋鍵なら、すぐにでも発動できる。
たった一言、特定の音域で声を投げかければ、
ジョウの喉の封印は再び強固に施される。痛みはない。本人も気づかない。
ただ眠りに落ちるように、過去へ続く道が閉ざされる。
けれど、それを行えば、トウゴやヨシと過ごした日々の記憶まで、
すべて消える可能性があった。
術式に書き添えられた注記に、そう記されていたのだ。堰は、そのことには一言も触れなかった。
ジョウは床から、じっとトウゴの顔を見上げていた。
「なんか、すごい怖い顔してるね」
「……うるさい」
「いつもより、眉間のシワが深いよ」
「黙れと言っている」
ジョウが、ふっと小さく笑った。
「ごーさんってさ、怒ってるときと、ワシのこと心配してくれてるときの顔、全くおんなじだよね」
ポケットの中で、紙を握る手に、無意識に力がこもった。
視線が、一瞬だけジョウの顔から逸れる。逸らした先に何もないと分かっていながら、逸らさずにはいられなかった。
「……何を、言っている」
「だってそうだよ。ワシにきつい毒舌を言うときって、大体ワシが無茶しそうなときか、落ち込んでるときか、そのどっちかだからさ」
部屋が、静まり返る。ジョウは、穏やかな声で続けた。
「今日も、何かあったんでしょ? ワシのことで」
トウゴは、何も答えられなかった。
「記憶ね、少しずつ戻ってきてるんだ」
あまりにも唐突な告白だった。けれど、その声音はどこまでも静かだった。
「本当に、パズルのかけらみたいな断片なんだけどね。誰かの声とか、すごく冷たい扉の感触とか。でも、不思議と怖いとは思わないんだ。それよりも、知りたいって気持ちのほうが、今は何倍も強いから」
「……そうか」
「ごーさんは、ワシの過去、知ってるの?」
逃げ道のない、真っ直ぐな問いだった。
トウゴは答えを返さなかった。いや、返せなかった。
「知ってそうな顔してるからさ。よっさんとは、また違う感じで。よっさんは全部自分の目で見て知ってる顔だけど、ごーさんは、なんていうか、記録として知ってる顔」
鋭すぎる。
記憶は失われていても、この男の直感だけは本物だと、トウゴは思った。
「でも、教えてもらわなくていいよ」
「……え」
「今は、ね。ワシが自分で、ちゃんと思い出したいから。でも――」
ジョウが、トウゴの瞳を真っ直ぐに射抜いた。
混じり気のない、濁りのない瞳に、トウゴが映っている。
「ワシが全部思い出したとき、ごーさんが知ってることと答え合わせをさせてくれたら、それでいいから」
ポケットの中で、術式の紙が、強く握りしめられたままそこにあった。
論理的には、使うべきだった。
記憶が戻れば、ジョウは間違いなく危険に近づく。今ここで封じ込めれば、この男を安全な日常へ守り通せる。それは封印派としても、トウゴ個人の正義としても、正しいはずだった。
けれど目の前のジョウは、自分の意志で「知りたい」と言ったのだ。「自分で思い出したい」と、前を向いて笑ったのだ。
それを、また俺たちの都合で、力ずくで奪うのか。
トウゴは、ゆっくりとポケットから手を下ろした。
術式は、ついに発動しなかった。
「……覚えておけ」
胸の奥から、絞り出すように声を放つ。
「何を?」
「お前がそこまで言うなら、意地でも思い出せ。途中で止めるな」
ジョウが不思議そうに首を傾げた。
「それって、応援してくれてるの?」
「違う」
「絶対してるって」
「していない」
「今、声がすごく優しかったよ」
「……うるさい、黙れ」
トウゴは、これ以上引き止められないよう、即座に踵を返して出口の扉へ向かった。
「ごーさん」
背後から、あの澄んだ声が追いかけてくる。
「今夜ずっと、ワシを守ろうとしてくれてたでしょ」
トウゴは、二度と振り返らなかった。
「……さっさと寝ろ」
それだけを冷たく言い残し、部屋を出た。
静まり返った廊下で、トウゴはコンクリートの壁に背中を打ちつけた。
そして、ポケットの中の紙を、これ以上ないほどの力で握りつぶした。
使わなかったのではない。使えなかったのだ。
それが、仲間を巻き込んだことへの罪悪感なのか、
あの少年の未来を奪いたくないという自分自身の意志なのか。
その答えだけは、暗闇の中でいくら考えても、トウゴ自身にも分からなかった。




