第34話 正しさという檻
* * *
ジョウの記憶が、戻り始めていた。
その影響でジョウの動きが、明らかに変わっていたのだ。
戦闘訓練を見ていたトウゴには、その理由が分かっていた 。
考えるより先に身体が動く、野生めいた直感の動き。
その中に、ほんの一瞬、何かに怯えるような「躊躇い」が混じるようになっていた。
本能と、脳裏に去来する別のノイズが干渉し合っている。
それが何なのか、トウゴは知っていた。
封印派の中枢に連なる家の人間として、かつて閲覧した極秘の記録の中に、その答えはあった。
兄であり、封印派の幹部でもある堰から連絡が入ったのは、その日の夜だった。
スマートフォンの画面に表示された名前を見て、トウゴは忌々しげに舌打ちをし、通話ボタンを乱暴にスライドする。
『――統護』
名を呼ぶ声が、ほんの一拍だけ長かった。
『そろそろ、二人で大人の話をしようか』
指定された場所は、封印派が裏で管理するビルの一室だった。
表向きはありふれたコンサルティング会社。幼い頃から、家の用事で幾度となく出入りさせられた、冷たい記憶の場所だ。
行かない、という選択肢は最初から存在しなかった。
*
堰は、机の上に書類を一枚、几帳面に整えて置いていた。
トウゴが入ってきても、顔を上げるまでに一拍の間があった。
挨拶も労いもない。定例の業務報告を始めるような口調だった。
「鍵城ジョウ。どうやら、記憶が戻り始めているね」
トウゴの眉が、微かに跳ねた。
「……監視していたのか」
「それが、お前に与えられた本来の任務だろう?」
反論は出なかった。奥歯を、ぐっと噛み締める。
「封印派の記録は、お前も知っているね。あの惨劇の夜、禁忌の扉を開けてしまった子供のことを」
「……知っている」
「それがジョウだと分かったとき、お前はどう思った?」
トウゴは答えなかった。堰も、答えを急かさない。
沈黙を肯定と受け取ったように、淡々と続けた。
「記憶が完全に戻れば、ジョウは必ず再びあの扉へ向かう。あの夜と同じ惨劇が起きる。……いや、封印が半分解けかけている今は、あの夜よりさらに大きな歪みが生まれる可能性がある」
言葉が、積み木のように一つずつ積まれていく。
トウゴには、それを崩す術がなかった。
「そんな危険分子を、扉に近づけるわけにはいかない」
「……分かっている」
「ならば」
「分かっていると言っている!」
トウゴの声が、無機質な部屋に鋭く響いた。
堰は表情一つ変えず、机の上に一通の白い封筒を滑らせた。
「封印の術式だ。宝璽様が直々に編まれたものだよ。お前の声紋鍵なら、問題なく発動できる。一度行使すれば、ジョウはまた、何も知らない普通の大学生に戻る」
トウゴは、封筒を見つめた。
脳裏に、ジョウの顔が浮かぶ。
毒舌を吐くたびに嬉しそうに懐いてくる、あの妙な顔。
怪我はないかとぶっきらぼうに尋ねたとき、「大丈夫」と屈託なく笑った、
真っ直ぐな声。
「……ジョウは、何も知らなかったんだ」
声を絞り出すように言った。
「騙されて、あの扉を開けさせられた。その結果、記憶を失った。それでもあいつは、必死に今日まで生きてきた。その記憶を、また力ずくで封じ込めることが――」
「それが『守る』ということだよ」
堰が、静かに遮った。
「記憶が戻って再び扉に向かえば、また誰かが命を落とすかもしれない。あの夜のようにね。それを未然に防ぐことこそ、我々封印派の果たすべき『守護』ではないのか?」
トウゴの指先が、封筒の端に触れた。
論理は正しい。扉は永久に閉じるべきだ。
それが実家の、ひいては自分自身が信じてきた答えだったはずだ。
ずっと、そう思い込んで生きてきた。けれど――。
『ワシの中に、封印しなきゃいけないものがあるんでしょ?』
いつかの夜、覚悟を決めたようにジョウが告げた声が、耳の奥から離れない。
知りたいと言っていた。自分に関係のない世界だとは、もう言えないと言っていた。
「……一つだけ聞く」
トウゴは、堰を真っ直ぐに睨み据えた。
「これを執行すれば、ジョウは本当に安全になるんだな」
堰は、感情の起伏を一切見せないまま頷いた。
「もちろんだとも」
――嘘だ。
長年この男の背中を見てきたからこそ、直感で分かった。
堰が本当にジョウの身を案じているはずがない。これも組織の計画の一部だ。
ジョウから武器を奪って無力化し、封印派の管理下に置くための罠だと分かっていた。
それでも、扉が危険なのは事実だった。
堰が嘘をついていても、記憶が戻れば戻るほど、
ジョウが破滅へ近づいていくという一点だけは、変わらない。
分かっていながら、トウゴは封筒を手に取った。
紙一枚のはずの封筒が、鍵よりも重かった。
元々は、ジョウには関係のない世界のはずだった。
そこへ彼を巻き込んだのは、他でもない、自分たちB-ブロードだ。




