第33話 唐揚げは正義
* * *
「鍵城くん、暇なら伝票整理手伝ってよ」
喫茶店「ミチクサ」で空が声をかけてきたのは、
ランチの客足が一段落した頃だった。
ジョウはカウンターの隅で頷き、伝票の束を受け取る。
「これ、日付順?それとも金額順?」
「日付順に決まってるでしょ。金額順にする意味ある?」
「いや、なんとなく聞いてみただけ」
「なんとなくで聞くな、時間の無駄だから」
ジョウは口を尖らせながらも、素直に伝票を並べ始めた。
空が頬杖をついたまま、束の一枚を指で弾く。
「この水曜の分、鍵城くんいなかった日だよね。先週も入れないって言ってたし」
「あー、うん。ちょっと大学の用事があって」
「サークル?」
「……まあ、そんな感じ」
「歯切れ悪いなー。彼女とデートとか言えばいいのに」
「いないし! なんでそうなるんだよ」
空がケラケラと笑った。
「鍵城くん、バイトの休み理由も体調不良の理由も、いっつも『ちょっと』とか『まあ』とかじゃん。ミステリアス系ぶってんの?」
「ぶってないよ! 普通に説明が面倒くさいだけ」
「余計怪しい。犯罪?」
「犯罪じゃない!」
「じゃあ、地下アイドルの追っかけ?」
「なんで急にそこ具体的なんだよ」
厨房から、片桐さんが顔を出した。
「お前ら、また油売ってんのか。伝票、まだ半分も終わってないぞ」
「今やってますー」
「鍵城、『階段ですっ転んだ』って言ってた絆創膏、まだ貼ってるじゃないか」
「あ、これは、その、治りが遅くて……」
「治りが遅いんじゃなくて、また転んでるんだろ」
「な、なんで分かるんですか」
「顔に書いてある。お前は嘘つくのに向いてない」
空が横で盛大に吹き出した。
「片桐さん、占い師かなんかですか」
「長年の勘だよ。……まあ、俺も隠し事は下手なほうだったからな」
最後の一言だけ、冗談の温度が少し違った気がして、ジョウは顔を上げた。
けれど片桐さんはもう背を向けて、厨房の鍋をかき混ぜていた。
図星を突かれたジョウは、伝票の束に顔を埋めるようにして俯く。
空はまだニヤニヤしている。
「まあまあ、人に言えない事情の一つや二つ、青春ってことで」
「青春って言葉、なんか違う気がするけど……」
しばらく黙々と伝票を並べていたが、空がふと思い出したように言った。
「そういえば、来週のまかない、何がいいか希望ある? 片桐さん、また魚安く仕入れたいとか言ってたけど」
「唐揚げがいい」
「魚の話してるのに唐揚げ?」
「唐揚げは正義だから」
「正義って何、意味わかんない」
「わかるだろ、揚げたてのあの音とか匂いとか、あれはもう理屈じゃなくて本能」
「鍵城くんの語彙力、唐揚げの時だけ豊かになるよね」
片桐さんが、笑いながら会話に加わった。
「唐揚げか。じゃあ今度、鍵城の当番の日に揚げてやるよ」
「マジすか! ありがとうございます!」
「その代わり、伝票終わらせろよ」
「はい! 全力でやります!」
ジョウは急にやる気を出し、ものすごい速さで伝票をめくり始めた。
その様子を見て、空が肩を揺らして笑いを堪えている。
「単純だなあ、鍵城くん」
「単純で悪いか」
「悪くはないけど、面白いわ」
そのとき、窓際の四人掛けから、三人のマダムの声が聞こえてきた。
「あらぁ、このクッキー、前より甘さ控えめじゃない?」
「片桐さんも、年々丸くなるのねぇ」
「そういえば、最近あのお兄さん、来ないわねぇ。ほら、仕立てのいいジャケットの」
「あら、そうだったかしら。常連さんになるって言ってたのにねぇ」
「「「ねぇ〜」」」
高く、中ほどで、低く。三つの声が、湯気の向こうでふっと重なった。
伝票をめくるジョウの指が、一瞬だけ止まる。
喉は、鳴らなかった。それが、ほんの少しだけ引っかかった。
「鍵城くーん、手、止まってるよ」
「あ、ごめん!」
ジョウは慌てて伝票に目を戻した。
それだけの会話だった。特別なことは何も起きていない。
伝票が並び替わり、唐揚げの約束ができて、
なんの変哲もない昼下がりが過ぎていく。
ジョウはその間、法鍵士のことも、あの人の笑顔のことも、
考えないようにしていた。
伝票をめくる手と、隣で笑う空の声と、厨房から漂ってくる揚げ油の匂い。
それだけが、世界のすべてだった。




