第32話 空席の聴き手
* * *
同じ夜、封印派のオフィス。
宝璽は一人、窓の外の闇を見ていた。
鍵を失った右手が、膝の上で握られている。何年も続けてきた癖だった。
机の上には、綴の報告書が開いたまま置かれていた。
封印は半分割れた。ミッドの声が、無音を貫いた。
最後の一行は、読み終えたあとも目の端に残っている。
――仲間の名を呼びながら、考えるより先に身体が動いていた、と。
宝璽は報告書を閉じた。閉じた手が、表紙の上でしばらく動かなかった。
「莢」
誰もいない部屋に、一度だけ声が落ちた。
続きはなかった。
窓際の机に、冷めた茶が置かれている。
湯気が消えて久しい。湯呑みを元の位置へ戻す。十年前、扉を開けた子供の声が、報告書の波形と、重なって見えた。
同じ声だった。同じ声が、また、誰かを呼びながら動いている。
「……ジョウを、封印し直す」
低く言ってみる。部屋の空気は、何も返さなかった。
「俺は、間違っていない」
言い終えたあと、右手がもう一度、強く握られた。
爪が掌に食い込む。それでも力は抜けなかった。
扉の向こうから、堰の足音が近づいてくる。
宝璽は、窓ガラスから視線を外した。
そこに映っていた顔は、見ないまま。
「入れ」
声だけは、いつもの封印派の長のものだった。
* * *
同日。
深夜の封印派本部、その最奥の一室だけが、まだ明かりを灯していた。
堰は机に向かい、声紋の波形図を一枚ずつ揃え直していた。統護の名が記された分厚いファイルが、その隣に積まれている。
「……重心が甘い」
指先が、波形の一点をなぞる。群青の光がここで一瞬だけ膨らむ。無駄な力みだ。
堰は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
机の向かいには、誰も座っていない椅子が一脚ある。堰はそちらを見ないまま、水差しからグラスに水を注いで、椅子の前に置いた。
幼い統護は、稽古の後に差し出された水を頑なに拒み、震える足で立ち続けていた。
「……あの頃は、素直だったな」
グラスは手つかずのまま、結露だけが増えていく。
机の隅には、宝璽の署名が入った書類が一通。堰はそれだけ、端を丁寧に揃えた。
窓際へ歩く。ガラスに映った自分の顔は、穏やかだった。
「統護。お前が拒めば拒むほど――」
言いかけて、やめた。続きは、ガラスの中の顔がもう知っている。
机に戻り、最後の一枚に短く書き付ける。
『接触予定日――近日中』
ペンを置き、ファイルを丁寧に閉じる。
その所作には、一切の迷いがなかった。




