↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
32/47

第31話 覚えていてくれたら

*


足の裏が、ひどく小さかった。

踏みしめている感触が、今の自分よりずっと近い。

視線の高さも、届く範囲も、何もかもが小さい。


――子供の頃の、自分だ。


そう理解した瞬間には、もう景色の中に立っていた。

濡れた、古い石畳。冷たい感触だけで、そこがどこであるかが分かった。

――解放派の隠れ家の、一番奥へと続く地下通路だ。

灯りは極端に少なかった。


壁のレンガは古びて脆く、崩れかけている。

普段なら、足音が激しく反響するはずの場所。

けれどその夜は、誰も音を立てようとしなかった。

歩いて行くうちに、巨大な扉が見えた。

通路の突き当たりに、最初から世界の終着点としてそこにあったかのように、

静かに、重々しく佇んでいる。


見上げる首が痛くなるほど、大きかった。中央に、鍵穴が一つだけ穿たれている。

錆びた金属の匂いが、鼻の奥を突いた。

背筋が、勝手にぴんと伸びた。迷いはなかった。

それでも右の腕を、誰かが背後から必死に掴んでいる。

振り返らなくても、その手のひらの感触が痛いほど分かった。

小さくて、今にも壊れそうなほど、震えている。


『……本当に行くの?』


声が震えていた。必死に涙を堪えているのが、背中越しに分かる。

けれど、その主は決して泣かなかった。


『行くよ。ワシの母さんが、この扉の中にいるって聞いたから――』


腕を掴む小さな手に、骨が軋むほどの力がこもった。

何かを言いかけて、言葉にならず、握る力だけが強くなっていく。

その沈黙の重さに、幼いジョウはゆっくりと振り返った。

そこにいたのは、まだ幼いヨシだった。

見上げなければ目が合わない。それでも、今の自分より、少しだけ背が高いだけだった。

髪は短く、けれどその目は、今の彼と同じ色をしていた。

あの飄々とした仮面は、どこにもない。

今にも涙が溢れそうなほど歪んだ顔で、それでも歯を食いしばって堪えている。

やがて、その口から、ようやく言葉が絞り出された。


『俺はっ……ジョウを……』


そこで、声が途切れた。

止めたい。でも、止める資格が自分にあるのかも分からない。

目の前の友達を目を逸らせずにいる子供の声だった。


『ヨシ兄ちゃんの気持ちはちゃんと分かってるよ』


幼いヨシが、息を呑んだ。


『でも、母さんがあの中にいる可能性が、ほんの少しでもあるなら……それだけで、ワシが動く理由には十分なんだ』

『十分なんかじゃないよ!』


幼いヨシの声が、初めて激しく割れた。


『もしジョウが戻ってこなかったら、俺は……お前が消えちゃったら……っ!』

『ヨシ兄ちゃん』


幼いジョウは、小さな手のひらを、ヨシの頭にそっと置いた。

乱暴ではなかった。ひどく静かで、温かい手だった。

ぽん、と一度だけ撫でて、すぐに離す。


『ワシがもし戻ってこられなかったら……その時は、ヨシ兄ちゃんがワシのことを、ずっと覚えていてくれたら、それだけでいいから』


幼いヨシは、それ以上、一歩も動けなくなった。

ジョウの腕を掴んでいた指先が、ゆっくりと、力なく滑り落ちていく。

止める言葉は、もう見つからなかった。

ジョウの目は、すべてを決めてしまった人間の目だった。

どんな言葉を尽くしても、その足を止めることはできない――そういう目をしていた。


*


――扉が、ゆっくりと開いた。

中から溢れ出してきたのは、眩い光ではなかった。

激しい突風でもなかった。もっと世界の根源に位置するような

禍々しくも圧倒的な何かが――奔流となって溢れ出してきた。

記憶は、そこで無残に途切れていた。


――ジョウは、ハッと目を開けた。


視界に飛び込んできたのは、見慣れた地下室のコンクリート天井。

喉の奥が、未だに火をつけられたように熱い。

隣を見た。トウゴがいた。

壁にもたれかかったまま、いつの間にか深い眠りに落ちている。


その向こう側には、ヨシがいた。

分厚い毛布に包まれたまま、静かに、規則正しい寝息を立てていた。

手のひらの中に、あの夜に触れた、幼い頭髪の柔らかい感触が明確に残っていた。

ジョウは自分の右手を、ゆっくりと持ち上げて見つめた。

何もない。ただの、少し傷だらけの、大人になりかけの手のひらだ。

なのに、そこに確かに「触れた」感覚だけが焼き付いている。


(よっさんは――あの夜、あの場所に、一緒にいたんだ……)


現在のヨシの顔が、脳裏に浮かぶ。

いつも周囲を煙に巻く、飄々とした笑い方。

本心を隠すように、口角だけを器用に動かす、あの笑みの形。

扉の前で、自分を抱きしめた腕。袖口から落ちた、一滴の赤。

あれは、誰の腕だったのだろう。

思い出したのは断片でしかない。母のことも、扉の向こうにあったものも、まだ何一つ分かっていない。


(……あの日から、ワシは、一人じゃなかったのかもしれない)


膝を抱え、額を埋める。涙は出なかった。

ただ、胸の中心に、これまで感じたことのない重さと温かさが、同時に居座っていた。

どちらを先に手放せばいいのか、ジョウ自身にも分からなかった。

しばらくして、コンクリートの床に落ちる自分の影を見た。

三つ並んだ影のうち、二つはまだ眠ったまま動かない。

ジョウはその二つの影に、そっと自分の影を寄せるようにして座り直した。


「ジョウ? どうしたの〜、そんなに僕の顔をじっと見つめたりして」


いつの間にか目を覚ましていたヨシが、不思議そうに首を傾げながらいつもの調子で問いかけてきた。

その目は、いつも通り優しく微笑んでいる。

ジョウは胸に押し寄せる激しい感情をぐっと堪え、小さく首を振った。


「ううん。何でもないよ」


ジョウは、たった今思い出したあまりにも重い過去の断片を、

今はまだ、心の奥底へ静かに仕舞い込んでおくことにした。

けれど――手のひらに残るあの感触だけは、

簡単には消えてくれそうになかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。