第29話 半分だけの鍵
静寂が満ちていた。
けれどそれは、先ほどの虚無とは違う。世界の音が、正しく戻りはじめていた。
風の音や虫の声が、次第に耳に馴染んでくる。
それでも、三人ともしばらくはその場から動けなかった。
ジョウは淡金の鍵を固く握りしめたまま立ち尽くしていたが、全身の震えが止まらず、喉の奥が焼けるように熱い。
封印が強引に割れた部位が、痺れるように激しく痛んでいた。
鍵は、まだそこにあった。
淡いゴールドの光が、消えることなく、手の中で揺らめいていた。
「……ごーさん」
ジョウが、掠れた声で呼んだ。
トウゴが、ゆっくりと壁から背を離した。足元の呪縛はすでに解けている。
極度の負荷のせいで膝がガタガタと笑っていたが、
彼は自らの足でしっかりと立っていた。
「……ああ、無事だ」
「よっさんは――」
トウゴの促すような視線に従い、二人は同時に地面を見下ろした。
ヨシが、泥に汚れた手を地面につき、激しく咳き込みながらも
ゆっくりと起き上がろうとしていた。
声紋鍵を強制破壊された反動で、その顔は死人のように真っ青だ。
けれど、その目はしっかりと開かれていた。
「今回は……完全にやられちゃったねぇ〜……」
ヨシが言った。声はガラガラに掠れていたが、いつもの調子を崩そうとしない。
「よかった、無事なんだね」
ジョウが慌てて隣にしゃがみ込んだ。
「無理に動かないで。……鍵は、大丈夫なのか?」
「少し、待ってくれたら……またすぐに出せるようになるよ」
そこに灯る、淡いゴールドの光を、ヨシは見つめた。
「鍵……ちゃんと出せたんだね」
「うん。半分だけだけどね」
「半分でも――あの絶望的な場面で出せたなら……」
青白い顔のまま。掠れた消え入るような声のまま、
ヨシが、ふっと口角を上げて笑った。
「十分すぎるよ」
トウゴが二人の元へと歩み寄って来た。言葉は何も言わなかった。
けれど、ヨシの反対側へと静かにしゃがみ込み、
彼の身体の状態を確認するように一瞬だけ視線を這わせた。
「……立てるか」
「立てるよ。……たぶんね」
「たぶん、ではない」
「……うん、立てる」
「なら立て。長居する場所ではない」
ジョウとトウゴが、ヨシの両脇を支えるようにして肩を貸した。
三人で、しっかりと地面を踏みしめて立ち上がる。
ジョウの手の中で、金色の光が優しく揺れている。
封印はまだ半分残ったままだ。けれど、こうして目の前にある――その事実だけは、確かにここに存在した。
*
拠点の地下室で、ヨシは簡易ベッドに横たわっていた。
その身体には、誰の手によるものか、分厚い毛布が一枚そっと掛けられている。
本人はそれに気づくこともなく、泥のように深く眠り続けていた。
トウゴはコンクリートの壁にもたれかかって座っていた。
一睡もしていない様で、その手の中で、群青の鍵を出しては消し、
まるで、自らの武器がまだそこにあることを、必死に確かめているかのように、
消しては出すという行為を静かに繰り返している。
ジョウは床に膝を抱えて座り、自分の喉元にそっと触れていた。
金の残光が、今もかすかに皮膚の隙間から揺らめいている。
封印の割れた裂け目から、少しだけ光が漏れ出しているのだ。
昨夜の戦いの直後に比べれば、消耗のせいで光はひどく弱々しい。
けれど、決して消えることはなかった。
部屋の中は静かで。 長い間、誰も何も喋らなかった。
ヨシが目を覚ましたのは、夜が明ける頃。
ゆっくりと目を開け、見慣れた天井をじっと見つめてから上体を起こした。
「……みんな、おはよう」
「起きたか」
トウゴとジョウが顔を上げた。
「二人とも、もしかして一睡もしてないの?」
「俺は少し寝た」
明らかな嘘にジョウはすぐに分かったが、あえて何も指摘しなかった。
「ジョウは?」
「寝てないよ」
「寝てよ」
「眠くないんだ」
ヨシがベッドから身体を完全に起こし、自分の左腕を見つめた。
昨夜の壮絶な戦闘の痕跡が残っている。
鍵を強制封印された反動は、外傷としては現れない。
けれど、身体の内側が、鉛を詰め込まれたように酷く重かった。
「鍵は?」
ジョウの問いに、ヨシは手を広げて深く息を吐き出した。
「出せるよ。なんとかね……」
微かな精神の集中とともに、彼の掌から――白銀の光が、頼りなくも溢れ出た。
昨夜に比べれば格段に薄い光だが、具現化の領域まで回復している。
「よかった……」
安堵のため息を漏らすジョウに、ヨシが優しく問いかけた。
「ジョウの方は、どう?」
「半分だけ使えるみたい。昨夜よりはちょっと弱くなっちゃってるけど」
「過度に消耗したからね。しっかり休めば、ちゃんと元に戻ると思うよ」
「本当に?」
「……たぶんね」
「たぶん、か」
「だって、封印が『半分だけ割れた状態』なんて前例がないんだ。だから、たぶんとしか言えないさ」
ジョウは再び、自分の喉に指先を当てた。
「……不思議と、痛くはないんだよね。でも、なんか――変な感じがするんだ」
「変な感じ?」
「封印が割れている隙間から、何かがずっと漏れ出している感じがする。声じゃない。でも、声に酷く似た何かが……」
ヨシが、その言葉を聞いてほんの少しだけ目を細めた。
「それが多分、ジョウの……『ミッド』の声紋鍵の本質だよ」
「声紋鍵が、漏れてる?」
「完全に封印されてたときも、かすかなノイズとして漏れ出してはいたんだよ」
ヨシは白銀の光を手の中に仕舞って答えを続けた。
「半分解けた今は――もっと明確に主張し始めている。ジョウの身体が、まだその出力に慣れていないから違和感があるだけさ」
「慣れたら、普通になるのかな」
「なると思うよ」
トウゴが、手の中で弄んでいた群青の鍵を静かに仕舞い込んだ。
「ジョウ」
「うん?」
「昨夜は――よく、あの状況で声を絞り出したな」
短く、淡々とした声音。感情の起伏はまるでない。
けれど、その言葉の奥には、確かに剥き出しの何かが存在していた。
あのトウゴが、明確にジョウを肯定している。
「ごーさんが死にそうだったからさ。気づいたら、勝手に声が出てたんだ」
「勝手に人を死なせるな」
「いや、実際死にそうだったって」
「……まあ」
トウゴが気まずそうにふいと視線を逸らした。
「……助かった……礼を言う」
蚊の鳴くような、ひどく小さな声。聞き落としてしまいそうなほどの微音。
ここで何も言わずに受け止めることこそが、唯一の正解だと二人は知っていた。
不器用さを受け止めるだけでいい。それが、いちばんの返事になると、
二人とも分かっていた。




