第24話 由貴という名前
「大きくなったね、ヨシ」
ヨシは何も答えなかった。 白銀の鍵を握る手が、白くなるほど強く握りしめられている。
トウゴが、静かに一歩前へ出た。庇うでもなく、 ただ二人の間に立つような位置に。
「……どうしてここに」
「通りかかっただけだよ。本当に、ただの偶然」
来縁はそう言ったが、目は笑わないまま、路地の奥の闇を一瞥した。
末端たちが消えていった方向だ。
「さっきの連中、ワシが誰かも知らなかっただろう?」
「……分かっていて聞いているのか」
「うん。だから、あんな雑な喧嘩ができたんだよ。末端まで顔が割れてちゃ、動きづらくてね。ちゃんと知ってるのは――限られた人間だけでいい」
その視線が、もう一度ヨシへと戻る。
「例えば、君みたいにね」
ヨシは、それでも答えなかった。
ジョウはその横顔を見て、何も聞けなかった。
知らない方がいいのか、知るべきなのか、
自分にはまだその判断すらつかないと分かっていたからだ。
来縁が、改めて三人を見回した。
「ミッド、バス、トレブル――三声が完璧に揃ったチームが現れたって、噂は聞いてるよ」
来縁の視線が、再びジョウへと移動する。
一瞬だけ――何かが止まるような間があった。
「元気そうで、本当によかった」
ジョウは首を傾げた。けれど、来縁はそれ以上を言わせなかった。
「今夜はもう帰りなさい。ここに長居すると面倒なことになる」
来縁はジョウの目を真っ直ぐに見て、続けた。
「次は組織として、本腰を入れて動いてくるよ。覚悟しておいた方がいい」
喉の奥が、まだ嫌に熱かった。
「貴方はどうするんですか」
「ワシは大丈夫。こういうことには慣れてるからね」
来縁は、そのまま路地の奥へ歩き出した。
トウゴは、その背中を険しい目で見つめていた。何か言いかけて、口を閉じる。
「……行こう」
トウゴがジョウの肩に手を置き、拠点の方向へと促した。
ヨシは、来縁の消えた路地の奥を見つめたまま、動かなかった。
「……よっさん?」
「先に行ってて。すぐ追いつくから」
いつもの調子の声だった。けれど、振り返らなかった。
ジョウは頷き、踵を返した。
だが、数歩進んだところで、忘れ物に気づいた。イヤホンが、 ポケットの中で見当たらない。
「……ごーさん、先行ってて。イヤホン、さっきの路地で落としたかも」
「探すなら急げ」
トウゴはそう言うと、そのまま拠点へと歩き去っていった。
ジョウは踵を返し、来た道を戻る。
イヤホンは、側溝の縁に落ちていた。
拾い上げようとしゃがんだとき、路地の奥から声が聞こえた。
「……最後に会ったのは、お前が十四のときだったか」
声が聞こえた。来縁の声だ。
「十二です」
いつもよりずっと低く、硬かったヨシの声は、ジョウの知らない声色に感じた。
暗がりの中で、その二人の姿は淡かった
ジョウは咄嗟に動きを止め、暗がりの陰に身を潜める。
覗き見るつもりはなかった。ただ、なぜか――足が、その場から動かなかった。
風向きのせいか、途中から言葉が途切れ途切れにしか届かなくなる。
「父親」「由貴」という単語だけが、切れ切れにジョウの耳へ流れ込んできた。
意味は分からない。それでも、重大な話をしているのだと肌で分かった。
「――お前が両親の血を引いて生まれたとき……」
そこから先は、風にかき消された。
ヨシの肩が、ほんの少し強張るのが遠目にも分かった。
ジョウはイヤホンを握りしめたまま、それ以上近づけなかった。
同時に、これは自分に関係のある話なのではないか、という予感も拭いきれなかった。
やがて来縁の背中が路地の奥へ消え、
ヨシが一人、暗い空を見上げているのが見えた。
ジョウは静かにその場を離れ、拠点への道を歩き出した。
(由貴って、誰だ……)
「父親」と並べて口にされた名前。ヨシの話なら、ヨシの父の名前だろうか。
そう考えかけて、ジョウは首を振った。聞いてはいけない話を、勝手に繋げてしまった気がしたからだ。
それでも、その名前だけが耳の奥から離れなかった。
耳に残った単語を、ジョウは頭の中で何度も繰り返した。
答えは出なかった。
ただ、いつかこの名前が、自分の記憶の断片と重なる日が来る――
そんな予感だけが、靴音とともに胸の奥深くへと沈んでいった。




