第2話 音のない場所へ
*
(……誰も、いない)
あの柔らかい笑みだけが、なぜか頭から離れないまま。
ジョウは一刻も早く、この講義棟から出たかった。
3階から2階へ。急いで階段の手すりへと手を伸ばしかけたところで、
廊下の先に立つ男に気づいた。
大学の関係者だろうか?誰かを待つように、廊下の真ん中に佇んでいる。
しかし男はジョウに視線が合った途端、ニタリと笑みを浮かべた。
「やっと見つけました。鍵城ジョウくん」
「ど、どうしてワシの名を知ってるんだ?」
男は不気味な笑みを崩さないまま、一歩、また一歩とジョウに近づいてくる。
背筋が冷たくなったジョウは、先程より急いで階段を駆け下りた。恐怖でもつれそうになる足を堪えながら、必死に。
講義棟から出た瞬間、ジョウは息を呑んだ。
視界の先、今日大学に来た時とは変わっていた。
時間的に今は夕方の筈だ。しかし紫に成りかけていた空には、
未だ橙の欠片が残っていて薄い水彩画のように色が滲み合っていた。
足が地面を踏み込むにつれて、その色がじわりと薄れている事に気が付いた。
向こうのフェンスの錆もアスファルトの黒も、雑草の緑も。視界の全てが白と灰色に沈んでいた。空の橙も紫も、もうどこにもない。
空を見上げていると突然、喉が鳴った。
喉の奥から胸にかけて、これまでで一番強く。
音が遠のいた。敷地外を走る車の音も、風の音も、遠い。
自分の息の音だけが、はっきりと聞こえる。
周りの空気も薄い気がする。呼吸をしている実感が湧かない。
何度呼吸しても酸素が口の中で綿菓子の様にさっと溶けていく。
「な、んで……」
ジョウ自身がおかしくなったのかと疑うような光景だった。大学の敷地全体が色味と音が失われ、まるで異世界に来たようで、ジョウは絶望感に足を止める。
目の前にそれは『いた』。
大型犬に近い大きさの……カエルのような風貌に見えるが、影に近く、中心が闇のように見えない。周囲の光を吸い込むように、その存在の周りだけ暗く淀んでいた。
四つん這いになったそれはジョウの方向を見た。視界の端で何かが煌めき、そのカエルらしき物に当たると不気味な声を上げて、それは消えて行った。
「なんだよ……これ」
「異形ですよ。本当なら、この世界にいない者です」
突然、無音の世界の筈の背後から靴音が聞こえ、振り返ると、先程の男がそこに立っていた。
「ふふ。素敵な声ですね。良い声というのは、探そうと思って見つかるものではございません」
すると男は左手を掲げ、指を弾いた。乾いた音が無音の世界に響く。次の瞬間、男の姿が変わっていた。
「向こうから、勝手に転がり込んでくるものなのですよ。ジョウくんのようにね」
顔の一部を仮面で覆い、黒いマントを纏った人物が、そこに立っていた。
ジョウの頭は理解を拒んでいた。今見ているものが現実だと思いたくなかった。これが男の本来の姿なのか、そんな事を考える余裕すらない。
「外に出たかったのですか。残念ですが、ここはもう『外』ではないですよ?」
「外……じゃない?」
仮面の下で、口元は笑みの形を保っている。露出した右目だけが少しも笑っていなかった。
ジョウは二、三歩と後退りし再び走り出した。
キャンパス内を必死に駆け抜ける。講義棟の角を曲がり、中庭を突き抜けた。
走る間にも辺りは不自然なままだった。まだ大学の敷地内だというのに、誰一人とも遭遇しない。自分の駆け出している足音と荒い吐息だけが聞こえ、それが余計に焦りを煽る。
自分でも何処へ向かっているのか分からなかった。
喉の鳴りが激しくなる。自分の意志とは関係なく、何かが喉から溢れ出ようとする感覚に襲われ、思わず喉を押さえた。それでも鳴りは止まらない。
「本当にワシの喉、どうしたんだよ……」
「これはこれは。お疲れのご様子ですね。少しお時間を頂けますか?」
背後から掛けられた声に、背筋が凍り付く。
呼吸を荒くしたジョウがゆっくりと振り向くと、仮面の男は、息一つ乱さずそこにいた。




