第1話 その名前を知った日
「君、動かないで――!」
叫びが鼓膜を裂いた瞬間、喉の奥で何かが鳴った。
声が、光になる。
ジョウはその「鍵」を握りしめていた。
一時間前。
ぼやけた視界に色彩が戻ってくる。鍵城ジョウが顔を上げた景色は、いつもの芸術大学だった。
五限の講義は毎回眠くなる。夕方の空気も手伝ってか、一日の疲れが畳みかけるように押し寄せてくる。教授の声も心地よいアルファ波みたいだ。
ジョウは出席を取られた後、窓の外を眺めてそのまま眠りこけてしまったらしい。
(ワシ……またあんな夢を見てたのか)
古めかしい口癖から、ジョウの溜息が零れてゆく。
小さい頃の夢だ。大きな扉の前で、自分が鍵を開ける。その瞬間、誰かが自分を庇って消えた。
悪夢と呼ぶには、あまりに温かい光の夢だった。
ふと、前の席にいた二人組が小声で何か話した会話が、途切れ途切れにジョウの耳を掠める。
「……また出たらしいよ、『法鍵士』」
「ああ。今度はこの大学の近くって噂だよな?」
声を鍵に変え、得体の知れない何かと戦う者達がいる。ジョウも何度か耳にした事がある噂だ。今、巷で賑わっている都市伝説の一部で片づけられる程度には。
ジョウは徐に、前の二人の背中に目をやった。ふっ、と教室の空気が重くなった。
誰かが咳をする。半拍遅れて、その音が届いた。プリントを捲る音も、ペンが床に落ちる音も、水の底で鳴っているみたいに膜がかかっている。
(ワシ、まだ寝ぼけてるんだ……)
そう打ち消して、窓の外へ目を向けた。橙に滲んでいた筈の空の一部から、パズルのピースみたいに極端に色が抜け落ちたように見えて、瞬きを一つした。
気のせいだ。そう思いたいのに、喉の奥が、小さく鳴った。
前の二人は変わらず小声で話している。教授も黒板に淡々とチョークを走らせている。
左右を見渡しても、誰一人、顔を上げない。
(……自分だけ、なのか?)
法鍵士。
その単語が、さっきから耳の裏に張り付いて離れない。
都市伝説で聞いただけの筈なのに、胸の奥で、ずっとそこにあったような懐かしい衝動がざわついている。気づけばジョウは喉に手を当てていた。
引っ張られるようにスマホを取り出し、検索欄に「法鍵士」と打ち込む。
まとめサイト、考察、目撃情報。スクロールする度に指先がじわじわと冷えていく。見ているだけなのに。喉の鳴りが、一画面ごとに強くなる。
その中の一本の動画を再生した。画面の隅で、淡い光が弧を描く。
夢で見た、扉の鍵が開く時の光と同じ色だった。
指が勝手に一時停止に触れる。その瞬間、鳴りが脈に変わる。
視界もおかしい。瞬きする度に視界が鮮やかから一瞬だけ、
モノクロームの世界に切り替わり、その度に脈が一段と踊り出す。
色褪せたその世界は窓の外から少しずつ、まるで何かがこっちに向かって来ているかのように、色のある景色を白黒で塗りつぶしながらこちらに侵食しているようだった。
法鍵士。声が、鍵になる。
その言葉が頭の中でぐるぐる回り出す。抑えきれない衝動が、
喉の奥から這い上がってくる。
理由は分からない。けれど喉の奥が「早く動け」と告げているように、
強く脈打っている。
早ク動カナクテハ……
考えるより先に、身体は立ち上がっていた。
机から落ちた書籍が大きく響き、教室中の頭が一斉にこちらを向いた。
教授も振り返る。
「あ……スミマセン具合が悪くて……帰り……ます」
大勢の視線が痛い。嘘をこぼした気まずさが胸を掠めたが、
身体はそれどころではなかった。
教授の返事も聞かないまま雑に鞄を抱え、既に廊下へと飛び出していた。
廊下に出た瞬間、ジョウは後ろを振り返った。さっきまで聞こえていた教授の声が、閉じたドアの向こうから消えている。
妙な事に、どの教室からも人の気配が見当たらない。この時間は必修科目の講義が重なっている筈だ。休講という話も聞いていない。静まり返った廊下をジョウの足音だけが響く。
空気は、教室より幾らか冷たい。それなのにスマホを握る掌には汗がにじんでいた。それでも足は止まらない。ジョウは動画をもう一度再生しては目で追い、階段の曲がり角に差しかかった事にも殆ど気づかないまま。
肩に衝撃。何か柔らかいものがぶつかった感触。少し遅れて、それが人だと理解する。
手から離れたスマホが宙を舞い、カツン、カツンと乾いた音を立てながら廊下のタイルを転がった。相手の青年の足元近くで、漸く止まる。
「はい。どうぞ」
ミルクティー色の髪に黒いロングカーディガンを着こなした青年だった。差し出されたスマホの画面には法鍵士動画のサムネイルが映っていたが、青年は何も言わず、柔らかく笑っただけだった。
「すみません……有難うございます」
ジョウは申し訳なさそうに受け取るや、その場を急ぎ足で立ち去った。
*
ミルクティー色の髪の青年は、ジョウの急ぐ足音が遠くなるまで、背中を目で追っていた。
まさか自分と同じ大学だったとは。
好奇心ではない。素質を持つ人間が近くにいるのなら――後で確認すべき案件だ。
ポケットの中で着信が震えた。画面の名を見た青年は、一息ついてから通話に出る。
「……わかった。今から行く」
低い声色はビジネスライクなものに変わった。




