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第18話 トレブルの息子

「……置いていくことは、不可能です」


「なぜだ」

「戻す方法は、ありませんよ」

「……何だと」

「引き剥がした瞬間に、持ち主との繋がりごと固まるのです」


クラヴィスは、光のない鍵を指の腹で撫でた。


「戻すべき器が、もうありません」


クラヴィスの答えに再び、静寂が満ちる。


「これは紛れもない事実です。今さら皆さんに嘘をついても、何の意味もないでしょう?」


ヨシの手元は微動だにしなかった。

切っ先は男の喉元を正確に捉え続けている。

ジョウは、その残酷な現実をただ突きつけられていた。

戻す先が、もうない。あの美しかった歌声の持ち主は、もうどこにもいない。

彼女の命の証は、この男の上着の内側で、帰る場所を失ったまま冷たく固まっている。


「……ッ、うあぁぁ!」


ジョウの喉が、軋むような音を立てた。怒りではない。

胸の引き裂かれるような絶望から来る、慟哭の振動。

ジョウはあの時のように、空間に巨大な「扉」を具現化させようとした。

長方形の強固な型を刻む。その向こう側から、圧倒的な出力を引き出す。

この男を、塵も残さず吹き飛ばしてしまいたかった。

だが。


「ジョウ」


トウゴの手が、ジョウの肩をがっしりと掴んだ。

驚くほど静かで、冷徹な声で止めた。


「今じゃない」

「でも……!」

「今じゃないと言っている。落ち着け」


ジョウの動きが止まった。

トウゴの瞳には、怒りではなく、ジョウの痛みをすべて理解した上での

深い忍耐の光があった。

クラヴィスは、そんな三人を見つめ、気味の悪い薄笑いを浮かべた。


「本当に仲が良いのですね。三声が完全に揃ったチームの共鳴とは、これほど美しいものなのか……素晴らしい」


クラヴィスの指先が、再び上着の内側へと触れる。


「では、お返しに――少し、遊びましょうか」

「……遊ぶ、だと? ふざけるな!」


ヨシの白銀の鍵が、膨れ上がった。光のシルエットが、いつもの倍近く太い。

指揮者がタクトを振り下ろすように、鋭く腕が落ちる。


「オープン――!」


ヨシの背後に、掌ほどの扉が幾つも開いた。

白銀の光が、その一つ一つから、クラヴィスへ一直線に走る。

クラヴィスは上体を逸らし、半歩ずつ位置をずらして光を躱していく。

だが、躱した先にはもうヨシの切っ先があった。

肉薄したヨシの白銀の切っ先が、クラヴィスの上着の袖を――

音もなく、鋭利に切り裂いた。

ジョウのそれが世界を押し広げる扉なら、ヨシのは、狙いを定めた点の扉だった。


「っ――」


クラヴィスが自らの袖に目を落とす。

その顔から、完全に余裕の笑顔が消え失せていた。

ヨシの猛攻は止まらない。

いつもの、相手を翻弄するような揺れる重心ではない。

ヨシの足は、床を最短で踏んでいた。余計な一歩も、余計な表情もない。

感情は、すべて鍵の切っ先に乗っていた。

白銀の切っ先が三方向へ分かれた。左、右、正面。

コンマ一秒ずつずらして、回避先を潰していく。

視界の端で、トウゴの眉が動いた。手合わせで見た、あの突きだ。

――あの時とは、重さが違う。

クラヴィスは初めて、防戦一方で大きく後退させられた。


「……おや」


何かに気づいたクラヴィスの口元が、歪に吊り上がる。


「これは――先ほどとは、完全に別の術式ですね?」


ヨシは一切答えない。

答えないまま距離を詰め、白銀の光刃で廃ビルのコンクリート壁を容赦なく削り取っていく。

クラヴィスが辛うじて横に跳ぶが、ヨシはその着地すら待たなかった。

空中の慣性移動を完全に読み切り、着地地点に先んじて刃を突き立てる。

チリ、と微かな手応え。

鋭い切っ先が、クラヴィスの頬を浅く斜めに切り裂いた。


「……」


着地したクラヴィスは、自らの頬にそっと指先を当て、それを拭った。

白い指先に、生々しい鮮赤の血が滲んでいる。

室内に、張り詰めた静寂が降りる。

クラヴィスはヨシをじっと凝視した。その顔から、完全に笑顔が消え去っていた。

代わりに零れたのは、底冷えするような昏い声だった。


「――白銀のヨシか……」


男はその名を呼んだ。そして、観察するように言葉を続ける。


「あの、トレブルの息子か」


白銀の鍵が、止まった。

ヨシの身体が、一歩分だけ勝手に後退する。頭ではなく、足がそう決めていた。

握った柄の中で、光がひとつ、明滅する。強く、弱く、また強く。

喉の奥で、何かが小さく引っかかった。声にはならない。

扉。 石の匂いが脳内で響く。

小さな手が、誰かの腕を掴んでいる。離すまいと、爪が食い込むほどに。

ヨシの意識はその一瞬、確かに別の場所にいた。


「――退けよ」


我に返ったときには、そう口が動いていた。

クラヴィスか。あの夜の記憶か。それとも、自分自身に。

白銀の光紋が、いつもより一段、明るく揺らいでいる。

制御しきれていない証拠がそこにあった。ヨシ自身、それに気づいていた。

気づいていて、直せなかった。

ヨシのその致命的な動揺を見逃さず、クラヴィスの顔に再びじわじわと笑顔が戻ってきた。

しかし、今度の笑みはこれまでとは決定的に違っていた。

穏やかさなど微塵もない、サディスティックな歓喜に満ちた笑み。


「貴方のお父上の声は――私のコレクションの中でも、特に喉から手が出るほど欲しかった、至高の『トレブル』だったのですよ。しかし残念ながら手に入れられませんでしたが」

「黙れ」


ヨシが言った。声は恐ろしいほど低かった。

怒鳴り散らしているわけではない。

だが、あまりにも静かで、冷酷で――それ故に、狂気的なまでの重みがあった。


「父の名前を、その汚い口で呼ばないでくれ」


クラヴィスは、楽しげに少し間を置いた。


「そうですか」

「そうだ」

「……では」


クラヴィスが上着の内側に手を滑らせる。

瞬間、彼の指の隙間から、光のない鍵が複数本

ジャラリと擦れ合う音を立てて出現した。


「これは――どう、感じますか?」


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