第17話 沈黙の宝石
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クラヴィスを捕捉しかけたのは、翌朝のこと。
ジョウは解良から手にした紙ナプキンを握りしめた。
学外にある廃ビルの地下。三人は一言も交わさず、現場へと急行した。
埃の舞う廃ビルの一室。
その中央に、クラヴィスは平然と佇んでいた。
笑っていた。いつもと変わらない、張り付いた穏やかな笑みを浮かべ
まるで旧友を迎えるかのように三人をもてなす。
「これはこれは。B-ブロードの皆さんが揃って、何の御用でしょうか」
「歌夜さんはどこだ」
トウゴが一歩前に出た。その声のトーンは、地鳴りのように低く重い。
クラヴィスは小首を傾げた。
「ああ。あの方ですか」
「どこにいると聞いている」
「ここにはいませんが?」
室内の空気が一瞬で氷結する。
クラヴィスは優雅な動作で上着のポケットに手を滑らせ、
一本の『鍵』を取り出した。
色がない。形状は確かに存在するのに、輝きが一切ない。
――いや、違った。
ジョウはそれを見た瞬間、直感的に理解してしまった。
三日前の夜、あの練習室の窓から聞こえてきた美しい歌声がいま
ジョウの脳裏で鮮烈に鳴り響く。
あの奔放で芯のある旋律が、この男の手の中で無残な形に変えられている。
「綺麗な声でしたよ」
クラヴィスはうっとりとした声で言った。
「とても素直な方で。最期まで精一杯、声を絞り出してくださって――本当に」
最期、という二文字だけが、遅れて耳に落ちてきた。
ここにはいない。――どこにも、いないのだ。
喉の鳴りが、一瞬で消えた。
「黙れ」
ジョウの声は、自分の耳にも他人のもののように聞こえた。
高くもない。低くもない。ただ、それだけの声でジョウはクラヴィスを睨んだ。クラヴィスの視線がジョウへと移動する。
「おや、その様子……無事に『ミッド』の法鍵士として目覚めたのですね?」
「黙れと言ったんだ」
ジョウの喉が鳴っていた。
喉から漏れる光の粒が、瞬きのたびに強くなって行き、
淡いゴールドの光が滲み出す。だが、完全に鍵の形にはならなかった。
技術ではなく、純粋な怒りが先走り、能力の制御を完全に追い抜いていたのだ。
掌の中で、光が揺れる度に後追いする。
トウゴが半歩前に出る。群青の光が足元を這った。
クラヴィスは半歩身を引いた。その笑顔の仮面は微塵も崩れない。
「今日は少し、趣が違いますね。皆さん、いつもより――ずいぶんと怒っていらっしゃる」
「当然だ」
ヨシが静かに言った。物腰は穏やかだ。
しかし、声の底には牙のような冷徹さが隠されていた。
「あんたが一体どれほど悍ましいことをしたか、分かって言っているのか?」
「分かっていますとも」
「本当か?」
「ええ。至高の声紋鍵を、確かにいただきました。
あの『莢』に近い極上の音域でしたが――ほんの少しだけ質が違いましたね。
そこだけが、少々残念でした」
ヨシの拳が、音を立てずに握り込まれていく。白くなった指の関節を、ジョウは見た。
それだけで、理解した。名前の意味は分からない。
でも、触れてはいけない場所だということは分かった。
クラヴィスは、光なき鍵を胸の前で弄んでいる。
「声はこうして、永遠の形として残ります。
声を失った鍵というのは、こんなにも宝石のように静寂で、……実に美しい。声とは、持ち主が離れても消えない、唯一の宝石です」
ジョウは、男の指の隙間の鍵を見た。
色がない。音もない。
あの夜が、耳の奥で再生される。
開いた窓。誰もいない時間の、ひたむきな声。
同じフレーズを、何度も歌い直していた、あの――。
「――ふざけるなッ!」
ジョウの喉が爆発的に鳴り響いた。
鍵を完全に具現化させると同時に、右足で地を強く蹴る。
狙いも間合いも定めない、まっすぐな突進を起こした。
「ジョウ、止まれ!」
背後からトウゴの鋭い制止の声が飛ぶ。 だが、足は止まらない。
クラヴィスは突っ込んでくるジョウを正面に見据えたまま、半歩だけ右へずれた。
ジョウの鍵は、さっきまで彼が立っていた空間を、むなしく切り裂く。
「おやおやぁ」
体勢を崩したジョウへ向け、クラヴィスがそのまま返す動作で
死んだ鍵をジョウの鍵の側面へ滑り込ませた。
「感情的になるのは――鍵の扱い方として、あまり感心しませんね」
「うるさい!」
ジョウは踏みとどまり、両足を踏ん張って二撃目を叩き込む。
今度はクラヴィスも動かず、正面から死んだ鍵を突き出して受け止めた。
衝突音はしない。淡いゴールドと無音の鍵が接触した瞬間
そこには完全な真空の静寂が生まれた。
しかし、ジョウの攻撃は弾かれなかった。
両足を地面に踏みしめ、体重のすべてを鍵に乗せて
クラヴィスを強引に押し込んでいく。
クラヴィスの細められた瞳の奥に、初めて冷徹な計算の光が走った。
「力任せのゴリ押しですか。なるほど、面白い」
「返せ……!」
クラヴィスは押し込まれる力に逆らわず
逆に半身を沈めて 鍵の角度を滑らかに変えた。
支えを失ったジョウの重心が、前のめりに崩れる。
「――ただ、頂戴しただけです」
クラヴィスの手首が、わずかに返った。
押し込んでいたはずの力が、そのまま跳ね返ってくる。
前のめりに預けていた体重ごと、ジョウの身体は後ろへ弾き出された。踵が床を削り、滑る。
「退け、ジョウ!」
すれ違いざま、トウゴが右足で床を蹴った。
低く沈めた上体は、ほとんど地面を這っている。
間合いが三歩分、一瞬で消えた。
群青の鍵の切っ先が床に突き立つ。
重い低音が、コンクリートを伝って走った。クラヴィスの足元に亀裂が奔り、靴底が床に縫い止められる。
クラヴィスは寸前で膝を深く折り、両足のバネだけで垂直に近い跳躍を見せ
トウゴの一撃を頭上へとかわした。
クラヴィスの身体が宙に浮く。
その下で、ヨシはもう動いていた。
トウゴが踏み込んだ時点から、視線は一度も、クラヴィス本人を追っていない。見ていたのは、着地するであろう床の一点だった。
右足を軸に半身が開く。右腕が、真っ直ぐ伸びる。
白銀の鍵が、クラヴィスの着地するはずの一点へ、先回りするように突き出された。
クラヴィスの動きが、ぴたりと止まった。
両足が床に届くより先に、白銀の切っ先が、喉元の一ミリ手前で静止していた。
「……これは」
クラヴィスが、珍しく息を呑んだ。
「よっさんが……動きを先読みした……?」
体勢を立て直したジョウが、驚愕の声を漏らす。
「当然だよ。一度見れば分かる」
ヨシの声は穏やかに答えていたが、その奥の目は完全に凍りついている。
いつも張り付いている飄々とした笑みは、その顔から跡形もなく消え去っていた。
「あなたの動きは合理的すぎるんだよ。
だから、次にどこへ回避するか、計算すれば一目瞭然だ」
「お褒めの言葉として、受け取っておきましょう」
「褒めてないけどね」
ヨシの白銀の声紋鍵が、より一層鋭く研ぎ澄まされる。
「その鍵を置いていけ」
「それは……」
「置いていけと言っているんだ!」
地を這うような重い低音。ヨシがここまで声を荒らげ、威圧的なトーンを放つのは極めて異例だった。トウゴはその声の気配を察し、群青の鍵を厳しく構え直す。
クラヴィスは白銀の鍵の切っ先と一定の間を保ったまま、ゆっくりと体勢を変えた。
「……置いていくことは、不可能です」




