第19話 間に合わなかった夜に
クラヴィスは、光のない鍵の一本を、器用に人差し指と中指の間に挟んだ。
腕を軽く振るだけの力の抜けた投擲動作。
「では――これでも、関係ないと言い切れますか?」
シュッ、と空気を切り裂く音とともに、
鍵が手裏剣のような速度で飛んだ。
ヨシは右足を軽く引いて重心を後ろに移し、白銀の鍵でそれを叩き落とす。
しかし、それは精緻に組み立てられた囮に過ぎなかった。
残りの三本が、死角――ヨシの左右と背後から同時に肉体を強襲する。
光のない鍵は、一切の「音」を発しない。
ヨシは普段、空気の震えで相手の動きを拾っている。足音、衣擦れ、鍵が風を切る音。トレブルの耳には、それらが物理的になって届く。
それが、三本とも、どこにもなかった。
ヨシは咄嗟に体をひねりながら白銀の光を二方向へ分散させ、
右からの一本と背後からの一本は完璧に弾き飛ばす。
だが、体をひねる動作のぶん右半身の防御が遅れ――。
最後の一本が、ヨシの右肩を深く鋭くかすめ飛んだ。
「――っく!」
ヨシは右足を軸に大きく後退し、苦渋に満ちた表情を浮かべる。
白銀の光が激しく揺らいだ。
「音のない鍵には――いかなる響きも存在しない。
空気の震えで動きを拾う貴方の耳なら、これで容易く外せる」
ヨシは自分の右肩に目をやった。
上着が切り裂かれ、じわじわと鮮血が滲み出している。
「……そうだね。確かに、音がなければ、僕の探知は難しい」
ヨシの口から、掠れた声が漏れた。
しかし次の瞬間
両足を肩幅に据え直し、その声色からすべての動揺が消え去った。
広がっていた白銀の光が、猛烈な勢いで一点へと収束していく。
それはまるで、限界まで研ぎ澄まされた一本の『針』のように感じた。
「だけど――」
ヨシはゆっくりと、深く息を吐き出した。
それは彼が『封印モード』へと切り替える時のルーティン。
「音がないなら――こちらで『作れば』いいだけの話だ」
ヨシが右腕を大きく振り下ろし、
白銀の針の先端で 激しく廃ビルのコンクリート床を突き刺した。
その瞬間、超高周波の金属的な音波の波紋が、空間全体へと放射される。
刹那、クラヴィスの周囲に浮遊していた「光なき鍵」たちが
その音波の振動を受けてびりびりと激しく共鳴を始めた。
クラヴィスの目が、驚愕に細められる。
「……なるほど」
「一度見れば分かる、って言ったでしょ?」
ヨシは左足を踏み出し、容赦なく間合いを詰めた。
白銀の針が冷徹に床を叩き続ける。
目に見えない音波のグリッドが空間を満たし
無音の世界に居た鍵のシルエットが、完全にヨシの網膜へと投影されていく。
クラヴィスが、初めて右へ大きく退いた。
足の運びが、乱れている。計算された後退ではなかった。
「……面白い」
男は呟いた。しかしその声は、恐怖と興奮で僅かに上ずっている。
「本当に――面白い。さすがは、あの人の息子だ!」
「黙れって、言ったはずだけど?」
ヨシが右足を大きく踏み込み、白銀の光が、クラヴィスの首筋へと殺到しようとしたまさに、その瞬間。
クラヴィスは、自らの頬にそっと指先を当てた。血の色を再び確かめるように、少しの間、それをじっと見つめる。
「……なるほど」
呟きは、感嘆に近かった。彼の視線が、ヨシの構える白銀の鍵――もう戦意の形を保つだけで精一杯の、震える切っ先へと向けられる。
「これで、十分です」
「な……」
ジョウが息を呑んだ。クラヴィスは焦る様子もなく、ゆっくりと、光なき鍵を上着の内側へと収めていく。
「今夜、私が知りたかったのは――貴方が父上と同じ音質を持つかどうか、ただそれだけでした。答えは、もう十分すぎるほどいただいた」
彼の視線が、一瞬だけ路地の奥、闇の深い方向へと流れた。何かに気づいたような、あるいは気づいたふりをしただけのような、一拍の間。
「それに――どうやら、あまり長居をすると、私自身が『見られる』側になってしまいそうだ」
言葉の意味を問う余裕は、誰にもなかった。
「逃がさない!」
「逃げはしません。スマートに『引く』のです」
クラヴィスが音もなく一歩後ろへ下がると
周囲の空間がぐにゃりと歪み始めた。結界が解除されつつある。
「由士さん」
ヨシは答えず、ただ憎悪の目で睨みつける。
「貴方の鍵は――お父上の鍵の音質に、驚くほどよく似ている。……ですが、まだ頂戴するつもりはありませんよ。念のため」
「当然だ! 誰がお前なんかに渡すか!」
「おや、お断りになる。……結構、結構。今までの皆様も、最初はそうおっしゃるのですよ。でも最後には、必ず」
クラヴィスは一歩下がり、あの不気味な笑みを三人に零した。
「それでは皆さん、また近いうちに。……ふふ」
そう、空間が掻き消えるように歪み、クラヴィスの姿は完全に消失した。
廃ビルの室内に、ただ冷たい静寂だけが還ってくる。
ヨシは白銀の鍵を構えた姿勢のまま、微動だにせず立ち尽くしていた。
右肩の傷口から、じわじわと赤い血が滴り落ちていく。
「よっさん……!」
ジョウが恐る恐る声をかけると
ヨシは長い沈黙のあと、ゆっくりと鍵を手の甲へと収めた。
白銀の光が消える。張り詰めていた肩の力が、ゆっくりと抜けていく。
いつもの、あの飄々とした、何を考えているか分からない表情の仮面が
少しずつ、少しずつ彼の顔へと戻っていった。
「あと一歩……追いつかなかったね」
「そうだな」
トウゴが静かに鍵を仕舞いながら言った。
「でも、あいつに傷を負わせることができた」
ジョウがぽつりと呟く。
「ジョウ、見えてたの?」
「ああ、バッチリ」
嘘ではなかった。ヨシが床を突いた瞬間、白銀の音が波紋になって広がり、無音の鍵の軌跡を、一本ずつなぞっていった。あれは、確かに見えていた。
「そっか……」
ヨシが、ほっとしたように小さく笑った。笑い方が、いつもと少し違った。
「……よかった」
誰に向けたのか分からない声だった。
*
廃ビルの中に、三人だけの足音が寂しく響く。
ジョウは自らの手の甲を強く握りしめたままその場に立ち尽くしていた。
今すぐ追いかけたかった。けれど、足がどうしても動かなかった。
手の中で、淡いゴールドの光が弱々しく揺れている。
さっきまであれほど激しく燃え盛っていた光が
今は嘘のように小さくなっていた。
怒りが収まった後の、酷く虚しい、空っぽな感覚。
トウゴが静かに歩み寄り、何も言わずにジョウの隣に並んだ。
「……返せなかった」
ジョウの口から、掠れた声が漏れる。トウゴが短く頷いた。
「ああ」
「最初から――奪われた鍵は、もう戻せなかったんだな」
「そうだ」
「じゃあ、ワシは一体、何のために……」
「覚えていろ」
トウゴがジョウの言葉を遮るように言った。重く、厳格な声。
「鈴峯 歌夜という名前を。あの夜の声を」
ジョウは答えなかった。
ヨシの顔は、いつも通りの笑顔を取り戻しているようで
その瞳の奥の暗い陰は消えていない。
「行こうか」
ヨシが促した。
「……うん」
三人は、静かに廃ビルを後にした。
外の空は、いつの間にか白み始めていた。
アスファルトを踏み締める音だけが響く中、ジョウがぽつりと口を開いた。
「……あの夜さ」
二人は何も答えなかったが、ジョウは言葉を止めなかった。
「窓の外から聞こえていたあの歌声――あれ、ずっと頭から離れないんだ。知らない曲で、歌詞も分からなかったけど、すごく綺麗って思ったんだ。
ただ一人で、夜遅くに必死に練習してるんだなって……それだけ思ってたんだ」
「ジョウ」
ヨシが穏やかに遮った。
「自分を責める必要はないんだよ」
「責めてるんじゃないんだ」
ジョウは顔を上げ、真っ直ぐにヨシの目を見つめた。
「ただ、覚えていたかった。それだけだよ。名前も知らなかったし、顔だって見てない。でも、あの人の声だけは――ちゃんと自分の中に残しておきたかったんだ」
「……うん」
「クラヴィスが言ってた。声は形として残るって。あの男の手の中でさ。それが――一番」
「それが――一番」
ジョウは言葉を詰まらせた。喉の奥で、光が小さく鳴って、止まった。
トウゴが、深く、長く息を吐き出した。
「法鍵士として生きるということは――こういうことだ」
誰に向けるでもない言葉を、トウゴは白みゆく空を見つめたまま紡いだ。
「間に合わなかった過去が、誰にでもある。それでも、戦いを続ける。俺たちが歩みを止めれば、次に救えるはずの誰かに間に合わなくなる。それが――この役目の、一番反吐が出る部分だ」
ジョウはトウゴの横顔を見た。
「ごーさんにも、間に合わなかったことがあるの?」
トウゴは答えなかった。視線だけが、白みかけた空の、まだ暗い側へと逃げていく。
ジョウはそれ以上、聞かなかった。
「よっさんも?」
「……あるよ。それも、一回きりじゃないけどね」
朝の冷たい風が、三人の髪を揺らす。
「そっか……。なら、ワシ、もっと強くなりたい。前にも言ったかもしれないけど」
ジョウは拳を血が滲むほどに強く握りしめた。
「強くなりたい。次は必ず間に合えるように。出会う人全員を救えるわけじゃないかもしれない。それでも――一人でも多くの人に、間に合うために」
「なれるよ」
ヨシが迷いのない言葉を紡いだ。
「ジョウなら、絶対にね」
「根拠はあるの?」
「ないと思う? 」
「どこに?」
「ジョウの『声』さ。あの強固な封印空間の中で、ジョウの声は確かに響いた。あの絶対的な無音を、ジョウの意志が突き破ったんだ。それが、何よりの証明だよ」
ジョウは少しの間、自らの手のひらを見つめた。
「……それ、ちゃんとした根拠になってる?」
「なってるよ、大真面目にね」
トウゴが空から視線を外し、ジョウの目を真っ直ぐに見据えた。
「ジョウ、声を奪われた彼女のことを、決して忘れるな」
短く、気骨のある声が、ジョウに降り注ぐ。
「名前を覚えていろ。あの声を、魂に刻みつけておけ。それが――間に合わなかった者へ、俺たちが果たすべき唯一の礼儀だ」
ジョウは深く、強く頷いた。
「……絶対に忘れない。今日みたいに、思うだけで終わらせたくない」
「……それで良い」
地下拠点へと戻った室内は、ひどく静かに感じた。
ヨシは何も言わず、棚からインスタントコーヒーの粉を三つのマグカップに分けた。
お湯を沸かし、右肩を庇うように、左手でケトルを持ち上げる。袖口には、乾いた血の跡が褐色に残っていた。傾けた拍子に、湯が一筋、カップの縁を外れた。
横から手が伸びた。
いつの間にか立ち上がっていたトウゴだった。
何も言わず、ケトルの取っ手をヨシの手から取り上げる。そのまま三つのカップに、順に湯を注いでいった。
「……ごーさん」
「座っていろ」
ヨシは一瞬、言い返そうと口を開きかけて、やめた。トウゴの視線が、自分の右肩のあたりを一度だけ掠めていったからだ。
三人は、それぞれのカップを受け取り、温かい液体を口に含んだ。
ただ黙々と、喉を潤していく。
夜が完全に明け、窓の外からは柔らかな朝の光が差し込み始めていた。
形を変え、あいつのコレクションにされてしまった彼女の声は、いまも確かにジョウの耳の奥で鳴り響いていた。
あの夜、あの窓越しに聞いた――
名前も知らない彼女の、ひたむきな歌声が。
それだけが、この切ない静寂の中に、美しく残り続けていた。




