第15話 名も知らぬ歌い手
* * *
ある夜、開いた窓の隙間から、切なくなるほど美しい歌声が聞こえた。
学内の巡回の帰り道。
時刻は夜の十時を過ぎており、構内は誰もいない気配で満ちていた筈。
なのに、それは確かにそこにあった。
声は、聴覚よりも先に、皮膚に触れてきた。
夜気ごと、肌の表面をひたひたと撫でていくような感触。
ヨシと同じ高い音域が響いていた。だが、それは訓練された声の質感ではなかった。
誰かに聞かせるためではなく、夜そのものに自分を溶かしていくような
祈りに近い震え方をしていた。
ジョウの足は、意識するより先に止まっていた。
曲名も歌詞も分からない。それでも、声だけが
鼓膜の奥ではなく、もっと深いところに焼きついていく感覚があった。
細く、今にも折れそうなのに
芯だけは決して揺るがない、そんな手触りの声のように思えた。
ただ、その声が「今、ここに在る」という事実だけが
胸の奥にじんわりと重みを持って沈んでいった。
「……素質者、か?」
ジョウが気づいたときには、もう声が口をついて出ていた。
「かも……しれないね」
ヨシが応じた。その気配が、ほんの少しだけ張り詰めるのが分かった。
トウゴは何も言わなかったが、隣で息を潜める気配だけがあった。
三人とも、声の届く範囲から動けなくなっていた。
歌はまだ続いていた。ひとつのフレーズが途切れ、短い静寂が挟まる。
息を整えているのか、迷っているのか――
その"間"の質感だけで、ジョウには何となく伝わってくるものがあった。
まだ終わっていない。あの声はもう一度、紡がれようとしている。
案の定、また声が戻ってきた。さっきよりも慎重に、丁寧に。
同じ旋律を一音ずつ確かめるように響いていた。
(上手くいかない部分があるんだな……)
根拠なんてなかった。けれど、そう感じる。
夜遅く一人きりで、納得のいかない箇所を
何度も、何度も歌い直している――その気配だけが
ジョウの胸の奥に、痛みに似た形で残った。
「確認しに行く?」ジョウが問うと、
「うーん。今夜はやめておこう」ヨシが静かに首を振る。
「なんでだよ」
「強制しちゃいけないからね。まだ自覚のない人間にこちらから踏み込むのはルール違反だし、何より怖がらせてしまう」
(……ワシの時は拠点まで連れて行ったのに)
そうジョウは喉まで出かかって、止めた。
あの時は、もう鍵を出した後だったし、自覚はあった。理屈は通る。
それでも、横目に見たヨシの顔は、いつもの笑みではなかった。
それもそうだ、とジョウは自分を納得させた。
納得しながらも、未練だけがまだ耳の奥に残っていた。
声はまだ、同じフレーズを繰り返している。
少しずつ、本当に少しずつ、自分の声を削り出すようにして。
遠ざかる歌声を背中に感じながら、三人は再び歩き出した。
ジョウは歩調を進めながら、まだ耳の奥で震え続けているその余韻を
記憶のどこか柔らかい場所に、そっと仕舞い込んだ。
名前も知らない。顔も知らない。
それでも、あの震えだけは、確かに自分の中に残しておきたかった。
夜遅く、一人きりで、何度も同じ場所を歌い直していた。
*
三日後。
連絡を寄越したのはヨシだった。
それは、新たな声紋鍵の反応を捉えたという前向きな報告ではなかった。
――素質者が一人、行方不明になった。
ヨシが本部に届いた報告書をめくり
ジョウとトウゴに向けてその内容を読み上げた瞬間
部屋の空気が、急に重さを増した気がした。
誰の息遣いも聞こえなくなる。
自分の心臓の音だけが、やけにはっきりと耳の奥で鳴っていた。
「音楽学部の一年生。昨夜から完全に連絡が途絶えている。最後に目撃されたのは、音楽学部棟の練習室」
その一言を聞いた瞬間、ジョウの喉の奥が、勝手にひやりと冷えた。
気づけば、椅子を蹴るようにして立ち上がっていた。
「あの、歌声の子か」
「……おそらくね」
ヨシの声から、いつもの緩さが完全に抜け落ちていた。
その硬さだけで、事の深刻さが肌に伝わってくる。
「行くぞ」
トウゴの声が短く落ちた。振り返ることさえせず
すでにドアノブに手をかけている。
その足音の速さに、ジョウの胸がどくりと跳ねた。
言葉を交わす余裕もないまま、二人の背中を追いかけていたジョウは急いで移動する間、彼女の名前を知る事となった。
鈴峯 歌夜。声楽専攻。
ヨシが調べ上げた端末の画面が、青白い光をジョウの目の奥に焼きつける。
画面を持つヨシの指先が、かすかに強張っているのが分かった。
彼女の存在を示す証拠は、その小さな光の中に転がっているだけだった。
ジョウの胸の奥が、勝手に締めつけられた。
* * *
音楽学部棟の練習室の扉は、施錠されていなかった。
正確に言えば――鍵穴の周りが、内側から抉られたように歪んでいた。
トウゴがその場にしゃがみ込み、無骨な指先でドアノブの縁をなぞる。
立ち上がったトウゴの顔は、酷く険しく歪んでいた。
「声紋鍵で強引に開けられた跡だ。だが、この残存エネルギーの性質は……
封印の術式に近い」
その言葉を聞き、ジョウの脳裏にあの男の張り付いた笑顔が過った。
先に口を開いたのは、ヨシだった。いつもの緩さの欠片もない声だった。
「……あのクラヴィスだ」
賛同するように、ジョウも頷く。
「ワシもそう思う。クラヴィスの仕業だ」
押し殺した緊張感の中、ゆっくりと部屋の中へ足を踏み入れる。
個人練習室の狭い空間には、一台のグランドピアノと、譜面台。
そして椅子が置かれていた。
室内は、信じられないほど整然としていた。
あまりにも、綺麗に片付きすぎていた。
誰かがつい先ほどまでここで歌い、生活していたはずの部屋。
その痕跡は、どこにも残っていなかった。
なのに、椅子は机にきっちりと収まり、楽譜は開かれてすらいない。
片付けられすぎている。まるで、最初から誰もいなかったかのように。
ジョウの視線が、床の一点で止まった。
ヨシも、同じ場所を見ていた。
コンクリートの上に、指先ほどの光が滲んでいた。
ホワイトブルーの光。
それは、ジョウ自身の喉から出るものと、
色も揺らぎ方もよく似ていた。
見ている間にも、光は少しずつ薄くなっていく。
誰も、動かなかった。
ヨシがしゃがみ込み、その光に指先を近づけた。触れる寸前で、止めた。
「……まだ、温かい」
触れてはいない。それでも、指の腹に熱だけが残っているようだった。
「……これ」
それだけ言って、続きが出てこなかった。
言葉に詰まったような、短い沈黙があった。
ジョウは、三日前の夜のことを思い出していた。
開いた窓。誰もいないはずの時間に響いていた声。
同じフレーズを、何度も、何度も歌い直していた誰か。
あの声が、ここにあった。
そして今、床の上で――消えかけている。
ジョウは自分の喉に手を当てた。理由はなかった。
ただ、そうせずにいられなかった。
しばらくして、ヨシが立ち上がった。
いつもの飄々とした表情が、どこにもなかった。
「……間に合わなかった」
唇を噛む音が、静かな部屋でやけに近かった。
「三日前に、僕は気づいていたのに。あの夜ルールなんて無視して、部屋を確認してさえいれば、きっと――!」
「よっさん!」
ジョウは思わず、ヨシの肩を強く掴んでいた。
「それは違う!」
「でもっ……!」
「確認していたとしても、結果が変わっていたとは限らない!」
「だけど――変わっていたかもしれないじゃないか!」
ヨシの声が、部屋の壁に反響して消えた。
普段、感情の起伏をほとんど声に乗せないはずの一声が、やけに、部屋に響きすぎた。
激昂するヨシの瞳を見つめながら、ジョウはそれ以上、言葉を紡ぐことができなかった。
変わっていたかもしれない。
その可能性を、否定する言葉をジョウは持たなかった。
(……確認しに行く?って、訊いたのはワシの方なのに)
あの夜、「やめておこう」の一言に頷いたのは、自分だ。
納得したふりをして、耳の奥に残った未練だけを抱えて歩き出した。
ヨシを止めたあの手は、本当は、自分自身に向けて伸ばしたものだったのかもしれない。
(あの時、ワシが先に動いていたら……)
床の光は、二人の声が途切れるのを待っていたかのように、静かに消えた。




