第14話 柔らかい笑みの秘密
* * *
ヨシとトウゴが手合わせをしていたその頃。
二人の置いた距離のことなど知らないまま、
ジョウは「今日もちゃんと普通だ」と、自分に言い聞かせていた。
ジョウは喫茶店ミチクサでバイト中。店の裏口で数分ばかりの一息をついていた。
二人の鍵の重さを思い出して、ジョウは掌を一度だけ握っていたが、
店のコーヒーの匂いが、それを少し薄めてくれた。
(今日の賄い、片桐さんがアジフライ作るって言ってたっけ)
賄いのアジフライが楽しみで、つい頬が緩む。
揚げたてのサクサクな衣にクリーミーな具だくさんのタルタルソース……想像しただけでまだその時間ではないのに、ジョウの口が幸せで緩む。
「あー。賄いの時間、早く来ないかな〜」
待ち遠しく鼻歌が流れてしまう。
その鼻歌が、途切れた。
喉の奥が、ちり、と鳴る。
考えるより先に、身体が右へ流れていた。さっきまで頭があった場所を、風が掠めていく。
(……また!)
路地の記憶が蘇り、手が勝手に竹箒を掴んだ。振りかぶろうとして、そこで止まった。拳に、殺気がない。
見覚えのある柔らかい笑みが、目の前にあった。
「あの時の……お客さん!?」
「お?覚えてくれてたんだ。嬉しいな」
柔らかい笑みは、ブレンドを頼んだ時のままだった。拳を引いた手が、ゆるりと上着の裾を払う。
「鍵城くん、だっけ。また会えたね」
「……誰なんですか、アンタ」
竹箒の先は、下げなかった。喉の奥は、まだちりちりと鳴っている。
「ご挨拶が遅れたね。私は解良でいいよ。さっきのは悪かった。ちょっと、試したくなってね」
「試す……? なんでワシを」
「若葉の法鍵士が、どんな子か気になって。昔取った杵柄ってやつかな」
「……法鍵士」
「大丈夫。この店の中では、何もしないよ」
解良は、笑ったまま、裏口の扉に目をやった。
「これでも情報屋でね。君の戦い方に、ちょっと興味があったんだ」
「……誰から聞いたんですか」
「噂は、集まるものなんだよ」
解良は、笑顔のまま肩をすくめた。答えになっていない。それでいて、嘘をついている目でもなかった。
「それと、今日のことは、片桐さんには秘密にしておいてくれると嬉しいな」
(……なんで、片桐さんを)
聞きかけて、飲み込んだ。聞けば、何かが戻れなくなる気がした。
「……言いません。その代わり」
ジョウは、箒を握り直した。
「今度は裏口じゃなくて店で注文しに来て下さい」
「ははっ。約束するよ」
解良の目が、ほんの少しだけ細くなった。笑みは崩れない。
彼は軽く手を振り、裏口の路地へ消えていった。足音は、すぐに街の音に紛れた。
喉の鳴りが止まる。箒を持つ手が、遅れて震え出した。
「賄い、出来たぞー!……って、鍵城、どうした?浮かない顔して」
片桐の視線が、一瞬だけジョウの肩越し、裏口の方へ流れた。
「な、何でもないです。今行きます!」
席に着くと、香ばしい匂いと共に揚げたてのアジフライが湯気を立てていた。タルタルをのせて齧る。さくり、と音がして、ようやく肩の力が抜けた。
賄いを咀嚼しているジョウに、片桐は何も聞かなかった。ただ、ジョウの皿に、もう一枚アジフライを足した。アジフライの温かさの裏で、解良の「試した」という言葉が、小さな骨のように残っていた。
*
狭い裏道を歩きながら、解良は先ほどの言葉を思い返していた。
「裏口じゃなくて、店で、か」
口の端が、わずかに上がる。
「……前、片桐さんにも、同じことを言われたな」




