第9話 魔馬の仇討ちと、聖女の情熱
辺りがオレンジ色から濃い紫へと溶け始める頃。
街での買い出しを終えた俺たちは、予定していた野宿地に到着し、馬たちから荷物を下ろしていた。
「よーし、よし。よく頑張ってくれたな、漆黒号。イリス、そっちは大丈夫か?」
「ええ。重いものはすべて漆黒号が引き受けてくれたから、アンバーも余裕そうよ」
魔馬たちが鼻を鳴らして甘えてくる。その愛らしい様子に目を細めていると、ふとアンバーが「ブフンッ!」と激しい鼻息を噴き出し、俺の目の前まで駆けてきた。
「どうした、アンバー。まだ走り足りないのか?」
首元をポンポンと叩いてやると、アンバーは「ブルルン!」と力強く首を振り、俺に背中を差し出してきた。
……あの大怪我から、まだ一日だ。普通なら人間を乗せるのも嫌がるはずなのに。
「俺に、乗れ、と言うのか?」
確かな意志を感じ、俺はひらりとその背に飛び乗った。手綱を握った瞬間、アンバーは弾丸のような勢いで走り出した。
「えっ? ヴァン様!? アンバー!?」
背後で驚くイリスの声が遠ざかる。
アンバーの走りは、街へ向かった時とは明らかに違っていた。何かを確信し、その目的地へ最短距離で突き進む――戦場を駆ける軍馬のそれだ。
「バシンッ! バシッ!」
風を切る音に混じり、何かが肉を打つ嫌な音が聞こえてきた。アンバーが速度を落とした先、俺の視界に飛び込んできたのは、目を疑うような光景だった。
「こら! 言うことを聞けッ! このポンコツどもがッ!」
二人の男が、今にも倒れそうなほど痩せ細った馬たちに、血が滲むほどの鞭を振るっていたのだ。
「――おい。やめろ」
俺の低く抑えた声に、一人の男が振り返り、俺の体躯を見て硬直した。だが、もう一人は狂気に取り憑かれたように鞭を止めない。
「おい、どうした……げっ。ま、まさか、噂の英雄……!? ちっ、捕まるわけにはいかねぇんだよ――ッ!」
焦った男がこちらへ突っ込んでくる。俺はアンバーからひらりと飛び降りると、抜剣すら面倒だとばかりに、最短の拳一撃で男を泥の中に沈めた。
「ひ、ひえぇぇぇ――ッ! 助けてくれぇ!」
残った男が腰を抜かし、無様に懇願し始める。さっきまで物言わぬ馬を虐げていた口で、自分だけは痛い思いをしたくないと? ふつふつと煮えくり返るような怒りが、俺の足を動かそうとした、その時。
「ヴァン様! 何があったの……!?」
背後から響いた鈴を転がすような声。それだけで、俺の血管を駆け巡っていたどす黒い殺気が、一瞬で春の陽だまりのような悦びに霧散した。
「イリス。こいつらが、この子たちを痛めつけていたんだ」
「……まあ、なんて酷いことを」
俺は手早く、馬を繋いでいた紐で男たちを簀巻きにした。その横で、イリスは迷うことなく痩せた馬たちに駆け寄り、その傷ついた体に手を添える。
「ヴァン……」
「ああ、好きにしろ。俺は、そんな慈悲深い君を心から尊敬しているからな」
イリスが祈りを捧げると、暖かな光が馬たちを包み込む。男たちはその奇跡を目の当たりにし、幽霊でも見たかのように目を丸くしていた。
そこへ、アンバーが男たちの目の前にヌッと顔を出し、わざとらしく唾を飛ばしながら鼻を鳴らした。まるで見下しているようなその態度に、男の一人があろうことか叫び声を上げた。
「な、お前、なんで生きて……! 誰も触れられねぇように、細工したはずなのに!」
――自白だった。
アンバーに毒の傷を負わせたのは、目の前のこいつらだ。俺の瞳に「戦場の鬼」の如き冷徹な怒りが宿り、一歩踏み出した、その瞬間。
「バチンッ!!」
乾いた音が、静かな夕闇に響き渡った。
……イリスだ。
涙を浮かべた彼女が、手のひらを赤くして、自白した男を全力でビンタしていた。
「……ああッ。あんなに美しく、気高い怒り! 慈悲深い彼女が、誰かのためにその手を汚すほどの激情! 俺もあの手で打たれたい……! いや、その涙をこの指で拭えるなら、俺は死んでもいい。いや、いっそその手のひらになりたい……!」
『「安定の変態」だな、お前。少しは英雄のプライドを思い出せよ』
隣でシャドーが氷のような声を出すが、俺の耳には届かない。
「命を、何だと思っているのですか!」
震える声で叫ぶイリス。
「くっ……このアマがぁ!」
逆上した男が立ち上がろうとするが、それをアンバーが凄まじい威圧感で押さえつける。……良し、あいつはアンバーに任せて大丈夫そうだ。
「イリス。俺は街へ衛兵を呼びに行ってくる。……一人で平気か?」
「ええ、平気です。……お願いします、ヴァン様」
俺の名を呼ぶ、その凛とした声。
「ああ、すぐ戻る。――ピィ――――ッ!」
指笛に応え、遠くから漆黒号が風を裂いて駆けつけてくる。俺は愛馬に跨ると、もう一度イリスの横顔を網膜に焼き付け、街へと走り出した。
その後、俺が連れてきた衛兵たちは、なぜか過剰なほどに気合を入れて「英雄様のために!」と男たちを連行していった。
静かになった月明かりの下。ホッとした顔でアンバーを撫でるイリスは、まだ少し、悲しげな瞳をしていた。
「格好良かったぞ、イリス。君が怒ってくれたから、アンバーも、この子たちも心から救われたはずだ。……傷だけじゃなく、これからの未来もな」
俺の言葉に、イリスは少し照れくさそうに、けれどもしっかりと頷いた。
「……そう言っていただけると、嬉しいですわ」
聖女の魂のビンタと、英雄の変態的な惚気。
そんな凸凹な旅路の夜は、新しく加わった命たちの穏やかな寝息と共に、静かに更けていく。
こうしてまた、辺境への道中に『聖女と英雄』の新たな伝説が一つ刻まれたことを、当の本人たちはまだ知る由もなかった。




