第10話 命の重さと、聖女の後悔
パチパチと、焚き火が爆ぜる音だけが静かな夜の空気に溶けていく。
街で買ったばかりの新しい鍋の中で、コトコトと音を立てて煮えるスープ。その湯気をじっと見つめる主の横顔は、どこか遠い場所を見ているようだ。
平気そうな顔を装ってはいるが、お玉を握る主の右手が、かすかに、けれど確かなリズムで震えているのをオイラは見逃さなかった。
「……あんな人たちでも、命ある生き物なのに。わたくし、感情に任せて『傷つける』ことを選んでしまった。……治癒の力を持つ者として、失格かもしれないわ」
ポツリと、スープの泡が弾けるよりも小さな声で主が零す。
あからさまに落ち込んでいる主に、ついフォローするように口が動く。主は昔から、よく落ち込むのだ。それも、自分が『こうしていれば』とか、『こうしてあげればよかった』という、自分を後回しにした他人への後悔ばかり。
『おい、そんなに自分を責めるな。あいつらがやったのは、言葉を話せず、抵抗もできない生き物への一方的な暴力だ。自分たちが殴られる覚悟もないのに鞭を振るう奴に、文句を言う権利なんてないさ』
オイラの言葉に、主がハッとしたように顔を上げる。その瞳を覗き込むように、今度はヴァンが力強く、けれどこの上なく甘い声で割り込んだ。
「そうだぞ、イリス! 君のあの手は、命を救う手であり、同時に悪を裁く神の鉄槌だ! ……ああ、あの瞬間の君は、まさに神話に語られる闘争の女神のようだった! ……願わくば、その神聖なる掌が、次はこの俺の頬に……! いや、いっそ全身でその慈悲深い衝撃を……っ!」
『……主の神聖な悩みを汚すな、このド変態。お前が一番命を軽んじてる気がするぞ。……主に叩かれて本望だなんて、どの口が言うんだ』
「失礼な! 俺はイリスに打たれるなら、命など惜しくないと言っているんだ! これこそが騎士としての、いや、一人の男としての至高の悦びだろうが!」
『それは、堂々と言うことなのか……? せっかくのいい雰囲気が台無しだ。少しは品位というものを覚えろ』
ギャアギャアと、オイラとヴァンで言い争って……いや、いつものように戯れていると。
不意に、焚き火の光の中に大きな影が差した。
助けられた二頭の馬が、足音も立てずに主の膝元に鼻先を寄せてきていたのだ。
アンバーが主の隣にぴたりと寄り添い、「ほら、この人がお前らを助けてくれたんだぞ。怖くないから、挨拶しなさい」と言わんばかりに、新入りたちを促している。
馬たちの温かい鼻息が、主の震える手に吹きかかる。
その生きている証のような温もりに触れて、主の固かった表情が、ようやく春の雪解けのように柔らかくほろこんだ。
「……そうね。この子たちが無事で、本当に良かったわ。わたくしの手の痛みなんて、この子たちの苦しみに比べれば、なんてことないものね」
優しい瞳で馬たちの首筋を撫でながら微笑む主は、たしかに女神のようだった。
……まあ、今回ばかりは、あの変態ヴァンの意見に一部の理くらいはあることを認めてやってもいいと、そう思ったオイラなのであった。
夜風がスープの香りを運び、新しく加わった家族たちの穏やかな寝息が、森の静寂に溶けていく。辺境への道のりはまだ半ばだが、主の右手は、もう震えていなかった。




