第8話 街を彩る慈愛の雫
「イリス、アンバーの乗り心地はどうだ?」
「ええ、とっても素晴らしいわ。ヴァレント様の漆黒号も、なんだか誇らしげね」
――昨日、主の手によって癒やされた魔馬アンバーは、その恩を返すかのように、風を切り裂くような速さで街へと向かっていた。
活気あふれる街に足を踏み入れた途端、どことなく周囲がザワついているのを感じる。オイラの鋭い耳が、あちこちからの囁き声を拾い上げた。
「おい、あれって……」
「まさか、あのマントの紋章は……」
さっきの老夫婦も口にしていたが、どうやら主たちの噂は、彼らが思っているよりもずっと速く、この街まで届いているらしい。
しかし、そんな周囲の視線に対しても、主たちはどこまでも『無自覚』だった。当然のように、まずは腹を満たすための食堂を探し始めている。
「イリス、何が食いたい?」
「わたくしは、そうね……少し軽いほうが」
「そういえば、イリスが肉を食ってるところを見たことがないな。戦場でもそうだったが」
「あの場では……あまりに喉を通りにくくて。普段は少しですが食べますよ。戦場では食べられなかっただけです」
主の控えめな言葉に、ヴァレントの表情が引き締まる。
「そうだったのか! 気が回らずにすまない。……ふむ、辺境に帰ったら、柔らかい肉を狩ってくるか……」
『ヴァレント。今はそこじゃないだろ。狩りの前に、さっさと飯屋に入れ』
呆れて口を挟んだオイラに、ヴァレントは意外そうな顔をしてから、嬉しそうに口元を緩めた。
「そういえば、シャドー。これからは俺のことは『ヴァン』でいい。イリスもな。戦争が終わってから、少し余所余所しいのが悲しかったんだ」
「……。ふふっ、分かりました。これからは『ヴァン様』と呼ばせていただくわね」
「おう、そうしてくれ!」
あからさまにニコニコしながら、大型犬のように尻尾が見えそうな勢いで歩くヴァン。
そんな平和な一行に向かって、喧騒を切り裂くような男の叫び声が近づいてきた。
「スリだ――――っ! そいつを捕まえてくれ――――っ!」
正面からこちらへ猛ダッシュで突っ込んでくる小柄な男。
ヴァンは慌てて追いかけるような真似はせず、ただ静かに、岩のような正確さで右手を伸ばした。
男がすれ違おうとした瞬間、その首根っこをひょいと掴み、軽々と宙へ持ち上げる。
「こら、人のものを盗んじゃダメだろ?」
あまりにあっさりとした捕縛劇に、周囲からはどよめきに似た拍手が沸き起こった。
「お? おう、ありがとな!」
戸惑いながらも、無意識に英雄としての慣れた仕草で手を挙げて応えるヴァン。
「あ、ありがとうございましたっ! 衛兵! ここです!」
被害者の叫びに応じ、息を切らして駆け寄ってきた衛兵たちに向かって、ヴァンの表情が「戦士」のそれに変わった。
「衛兵! スリを見逃すとは、この街の警備はどうなっている。これでは安心してイリスを歩かせられないではないか!」
『あーあ。また始まったよ。衛兵が可哀想に……』
オイラが溜息をつき、主が状況を飲み込めずに首を傾げている間、衛兵たちはヴァンの顔を凝視して震え始めた。
「あ、あの……。大変失礼ですが、バルクレイ辺境伯閣下ではありませんか?」
「えっ!? まさか、あの救国の英雄様……!?」
「ん? ああ、俺はヴァレント=バルクレイだが……」
「おい、俺たち、英雄様に叱られたぞ!」
「光栄の至りだ! 直ちに気合を入れて警備いたします!」
「「「ご協力、ありがとうございましたっ!」」」
テキパキとスリを連行していく衛兵たち。呆気に取られているのは、助けられた側も同じだった。小綺麗な格好をした若い貴族らしき男は、口をパクパクさせながら頭を下げ続けている。
「な、な、なんと……英雄様自ら……! 本当にありがとうございました。この財布には、娘からもらった大切なお守りが入っていたのです。恩に着ます!」
「ああ。今度からは気をつけろよ」
ヴァンがニカッと笑って、右手を振って見せる。貴族の男は、まるで神でも見たかのようなキラキラとした目で、いつまでも二人の背中を見送っていた。
少し歩くと、今度は小さな女の子が転んで大泣きしている場面に出くわした。
親は慌て、周囲もその出血の多さに驚き、涙ぐんでいる者もいた。
「まあ、大変。お嬢ちゃん、足を見せてくれる?」
「うわぁぁぁぁぁん!」
女の子の激しい泣き声に、主が困ったように眉を寄せる。
「イリス、骨に異常がないかだけでも見てやったほうがいい……ほら、嬢ちゃん! 兄ちゃんが膝に乗せてやろう」
ヴァンは女の子をひょいっと持ち上げて、自分の逞しい膝の上に乗せた。彼の太ももは岩のように厚く、女の子の足は地面に届かず、ぶらぶらと宙を泳いでいる。
「ふふっ。ありがとうございます、ヴァン様。お嬢ちゃん、驚かせてごめんなさいね。傷口を綺麗にするわよ。ほら、このお水で……」
主が指を振ると、透き通った「聖なる水」がプカプカと女の子の目の前に浮かび上がった。
「わあ、すごい! キラキラしてる!」
浮かんでいた水が生き物のように傷口を包み込み、汚れを優しく浮かせて浄化していく。
「よしっ。次は、治療するわね」
主が祈りを捧げると、道行く人々が足を止めるほどの、温かなオレンジ色の光が溢れ出した。
「はい、おしまい! よく頑張ったわね」
小さな傷跡すら見えなくなった足を見て、主が女の子の頭を優しく撫でる。ヴァンも「よく耐えたな!」と大きな手でガシガシと頭を撫で、膝から下ろしてやった。
「あ、ありがとうございました! 何とお礼を申し上げれば……」
「気にしないでください。治してあげたかったから、治しただけですから」
「そうだぞ、気にするな。嬢ちゃん、これからは転ばないようにな!」
またしても、満足げに右手をひらひらと振りながら歩き出す一行。
その後ろでは、もう街中の噂が爆発的な勢いで書き換えられていた。
「洗浄係なんて嘘だ、あんなに美しい魔法、本物の聖女様じゃないか!」
「英雄様も本物だ! 貴族の知り合いがあんなに腰を抜かしてたんだからな!」
「なんて慈悲深いんだ……。我ら民草にまで、あんなに優しく……」
「それにしても……英雄様、聖女様のこと大好きすぎないか?」
「ああ、それな。近づく男全員にメンチ切ってたぞ……」
……うーん。
称賛の噂と、少々気恥ずかしい「惚気」の噂。その両方を引き連れて、主たちの旅路はどこまでも賑やかに続いていく。
噂が回る速さは驚くほどだ。次の街では一体、何が待ち受けているのやら。




