第45話 分かち合う過去、紡ぎ出す未来
悲しみに沈み、今にも折れてしまいそうなほど細くなったイリスの肩を、俺は壊れ物を扱うように優しく抱き寄せた。夜の静寂を切り裂いて走る馬車の揺れが、今は心地よいリズムとなって二人を包んでいる。
大公からは納めた税の返還についても打診があったが、バルクレイ領では現在、現金はほとんど流通していない。これまでの分は固辞し、今後は正しい税率で運用してくれれば良いと伝えると、彼は驚き、そして深く、感謝の意を表してくれた。
窓の外を流れていく月光が、物思いに耽るイリスの横顔を淡く照らしている。 彼女の心は今、ここにはない。かつての温かな食卓、そして失われた両親の面影を追いかけているのだろう。御者台の馭者も心配そうに様子を窺っていたが、今はそっとしておくのが一番だ。苦しみを吐き出すには、まず自分の中で言葉を整理する時間が要る。考え尽くしてから、もし相談があれば話してくれる。今の俺には、そう確信できるだけの積み重ねがあった。
「ヴァン、わたくしは……親不孝者なのかしら」
消え入るような呟き。それは彼女がずっと、心の奥底で自分を責め続けてきた棘だった。
「違う! 断じて違う。イリス、君は立派な親孝行者だ」
震える声に、俺は食い気味に言葉を返した。
「光の侯爵家に生まれ、わずか十二歳で戦争の最前線に立ったんだぞ? ご両親にとっては、誇り以外の何物でもない。……それに。君が戦場へ送られた背景には、家を継いだ叔父上が関わっている可能性があるとシリルから聞いた。俺は、君の両親の死が単なる事故だとは、どうしても思えないんだ」
重い蓋をこじ開けるように、秘めていた推測を口にした。彼女が触れたくないのなら、墓場まで持っていく覚悟だった話だ。けれど、これ以上一人で自分を責めるのだけは、どうしても看過できなかった。
「……ありがとう、ヴァン。昔、両親と一緒に食べた料理が、さっきの晩餐に出てきたの。それで、少しだけ……。心配かけてごめんなさい」
「イリス、俺にはいくらでも心配をかけていい。君が聞いて欲しいと思うなら、夜が明けるまでだって付き合うさ。イリスの記憶の中にいるご両親の話を、いつか俺にも聞かせてくれ。そうすれば、ご両親の生きた証は、俺たち二人の記憶の中で永遠に生き続けることになるだろう?」
「……っ。ええ、きっとそうだわ。……ありがとう、ヴァン。これから少しずつ、思い出すたびに聞いてくれるかしら。わたくしと、両親の……失われたはずの十二年間のことを」
「もちろんだ。むしろ、ぜひ教えてくれ。君がどんなふうに育って、どんなふうに笑う子供だったのか……俺は君のルーツのすべてを知りたいんだ」
うっすらと涙を浮かべるイリス。俺は努めて明るい笑顔を向けた。
これからは俺が守る。君の心に土足で踏み込むような悲しみからは、俺が盾になって守り抜く。
「ふふっ。さて、明日の晩御飯は何かしら?」
不意に、イリスが涙を拭ってこちらを見た。 その切り替えの早さに、俺は一瞬拍子抜けする。
「くくっ、もう明日の飯の話か? 現金なやつだな」
「だって、あんなに堅苦しくて豪華な食事だと、お腹がいっぱいなのかどうかも分からないんですもの。緊張が解けたら、急にお腹が空いてきてしまって」
「ははっ、全くだ。じゃあ、バルクレイに戻ったら、まずは酒の肴に干し肉でも炙るか? 執事に頼んで、腹にたまる温かな夜食も用意させよう」
「ええ、それがいいわ。ふふっ、楽しみね」
「ああ。これからは毎日、こういう騒がしい楽しさを積み重ねていこう。俺に任せとけ!」
頼もしさを誇示するように、わざと大仰に自分の胸を叩いてみせる。するとイリスは、暗闇を払う春の陽だまりのような笑みを浮かべてくれた。
悲しみは二人で分け合い、喜びは二人で倍にする。その当たり前のような、けれど何よりも尊い未来を掴み取るため、俺は彼女の細く柔らかな指先を、少しだけ力を込めて握り返した。




