第41話 公国の天敵、バルクレイの「財源」となる
その湖は、公国にとって「静かなる恐怖」の象徴だった。
かつて公国の猛者たちが幾人も挑み、最悪の場合は手足を失うほどの深手を負わされた難敵。それが湖に潜む巨大な魔物だ。それ以来、そこは誰も近づかない、地図上の空白地帯として忌み嫌われていた。
だが、そんな湖の主である「虹鰐」を、ヴァンをはじめとするバルクレイの面々は、単なる『食材』としてしか見ていなかった。
公国の民からすれば「討伐」は命がけの英雄的行為だが、彼らにとっては「晩飯の調達」に過ぎない。この凄まじい認識のズレが、後に公国民を驚愕させ、彼らを「英雄」の座へと押し上げることになるとは、今のヴァンは知る由もなかった。
さらに、バルクレイの底力は戦闘能力だけではなかった。
彼らが拠点を築く手際の良さは、公国が用意したテントなど必要としないほどだった。木を切り出し、即座に組み上げていくその姿は、一分の無駄もない「プロの開拓集団」そのものである。
「親父、用水路を掘るぞ。畑用の水は、湖から引いた方が距離が近いからな。公国の民たちが迷い込まないように、境界には簡単な柵でも作っておくか」
「ヴァン、ワニ対策に『簡単な柵』では心許ないんじゃないか?」
レイモンドが心配そうに口を挟む。公国の常識では、ワニの突進を防ぐには鉄製の強固な壁が必要だと考えられているのだろう。だが、ヴァンは事も無げに答えた。
「レイ、ワニってのはな、繁殖期の雌でもなけりゃ、縄張りに入らない限りは向こうから積極的に襲ってきたりはしない。基本的には、音や水面の不自然な振動に反応して食らいついてくるだけだ。つまり、人が近づかなきゃそれでいいんだよ」
「用水路を作って、水を流す時にだけ気をつければ問題ない……ということなのかな?」
「まあ、そういうこったな」
水源を確保しつつ、新鮮な肉まで手に入る。ヴァンにとっては「素晴らしい」の一言に尽きる環境だが、レイモンドには一つ気になることがあった。
「……そもそも、そんな悠長なことでいいのかい?」
レイモンドが、困惑を隠せない様子で眉をひそめる。
「ヴァン、そんな風に気が向いた時に狩る程度では、彼らの繁殖スピードに追いつかない。いつまで経ってもワニはいなくならず、この湖は危険な場所のままだ。それでは結局、湖を本来の意味で――領民が安心して近づける場所として有効利用できないのではないかな?」
レイモンドの言い分は、公国の世子としては極めて真っ当なものだ。魔物を根絶し、安全を確保して初めて「土地を活用できる」と考える。だが、ヴァンは事も無げに、むしろ不思議そうな顔で答えた。
「ん? ああ、減らす気なんてさらさらないぞ。ワニはあの湖で『養殖』するんだ。数が増えた分だけ、美味しくいただく。それだけだ」
「はあ――っ!?」
驚きで声を裏返したレイモンドに対し、ヴァンはケタケタと愉快そうに笑い、してやったりといった顔を見せる。
「レイ、お前が許可したんだろう? 公国の民に被害が出なけりゃ、好きにしていいと」
「ぐっ……。確かに魔物を飼育するだの何だの言っていた記憶はあるが、まさかあのワニを養殖しようなんて、普通は思わないじゃないか!」
「ガッハッハ! レイ、あとで食わせてやるから、文句はその後で言ってくれ。『もっと食わせろ! また食べたい!』って懇願するお前の姿が、今から目に浮かぶぜ?」
「そんなにか……?」
自信に満ちたヴァンの不敵な笑みに、レイモンドの期待と不安が入り混じる。
期待しすぎて落胆したくないという自制心が働きつつも、これまでのヴァンの「正解」を見てきた信頼が勝ってしまう。レイモンドの胃袋は、まだ見ぬワニ料理を想像して今にも鳴りそうになっていた。
「昼食後にさっそく捌く予定だ。仕事があるなら済ませてこいよ」
「ああ、分かった。……また後でな」
城に残した山積みの公務を思い出し、レイモンドは後ろ髪を引かれる思いで一度立ち去ったのだった。
★★★
「な、なんと……」
昼食を終え、約束の時間にバルクレイ領を再訪したレイモンドは、その変貌ぶりに絶句した。
午前中までは腰の高さまであった草が綺麗に刈り取られ、整地された地面には、幾本もの杭が正確な間隔で打たれている。周囲を囲う対魔物用の柵もすでに組み上がり、そこには刈り取られた草が整然と干されていた。
「なんというスピードだ。この杭は、区画を定めたのか?」
「よう、レイ。よく分かったな! この中心部へ向かう方角へ、馬車が余裕ですれ違える目抜き通りを作る。その両側に店を並べるんだ。民家はその裏側に、小道を挟んで配置する予定だぞ」
「小道の幅はどうするんだい?」
「馬車が通れる程度だな。家具や資材を運び込む時に、牛車が通れた方が便利だろう?」
先々まで見据えたヴァンの設計に、レイモンドはただ「さすがだな」と感心するしかなかった。
「建ててから直すんじゃ遅いからな。さて、んじゃワニを捕まえに行くか!」
「ヴァン様、解体の準備は万端ですぜ!」
屈強な男たちが、鋭く研ぎ澄まされた刃物を手に笑う。
「おう、ご苦労さん。今日は、黒にするか?」
「姐さんたちが、虹色が一枚欲しいって言ってますぜ」
「そうか。じゃあ今日は『生け捕り』だな! 親父、頭側を頼めるか?」
「いや、俺は尻尾をやる! 今日こそリベンジしてやるんだ――!」
専門的な会話が飛び交う中、レイモンドが入りあぐねていると、小さな男の子がトコトコと寄ってきて、彼を気遣うように声をかけた。
「王子様、どうしたの? お椅子があったほうがいい?」
「ああ、いや、大丈夫だよ。ありがとうね。……ワニの色が黒とか虹とか言っていたのが、少し気になっただけなんだ」
すると、その子より少し年上の少年が、物知り顔で説明してくれた。
「王子様は、ワニを捌くのを見るのは初めて?」
「ああ、そうだね」
「虹鰐はね、生きたまま皮を剥ぐと、その輝きが残って『虹色』のまま採取できるんだよ。血抜きをした後だと、真っ黒に変色しちゃうんだ。でも、血抜きが下手だと綺麗な黒にならないから、首を正確に落とせるヴァン様がいないと無理なんだよ」
「な、なんと……。知らなかったよ。教えてくれてありがとう」
子供たちはにっこりと笑い、母親のもとへ駆け出していった。バルクレイでは、幼子ですら知っている「生活の知恵」なのだろう。あの伝説の虹色の皮を、最高の品質で採取できたなら……その市場価値は計り知れない。
「レイ! 俺がワニの口を縛ったら、そこらへんまでなら近づいてもいいぞ! ただし尻尾に叩かれたら骨が折れるから、それだけは気をつけろよ!」
ヴァンの雑な忠告と共に、狩りが始まった。
ヴァンと辺境伯は無駄のない動きで湖へと接近し、巨体の一匹を鮮やかに陸へと誘い出す。ワニが地響きを立てて突進してきた瞬間、ヴァンが凄まじい踏み込みでその頭部を押さえつけ、強靭な縄で瞬時に口を縛り上げた。
「おらよ――っと!」
間髪入れず、辺境伯がのたうつ尻尾を力技で押さえ込む。
仰天し、腹をさらけ出して横たわった巨鰐。そこから始まったのは、神業のようなナイフさばきによる「活皮剥」だった。
その光景に、レイモンドはワニへ同情を覚えるほどの圧倒的な『蹂躙』を、まざまざと見せつけられるのだった。




