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第37話 イリスの嫉妬と決意

 レイモンド殿下をはじめ、多くの公国民たちに温かく迎えられ、国境の砦をくぐり抜けたわたくしたち。全員の安否を確認し、ようやく張り詰めていた緊張の糸を緩めることができた。

 

 見上げれば、東の空から柔らかな朝日が昇り始めている。

 そんな光の中、わたくしは愛しいヴァンの姿を見つけた。

 

「ヴァン!」

 

 そう声をかけようとして、上げた手が止まる。彼はわたくしに気づくより先に、ミラさんの元へ向かい、親密そうに話し込んでいたのだ。

 

(ああ……わたくしより先に、ミラさんに声をかけに行ったのね……)

 

 胸の奥に、ちくりと刺すような痛みが走る。

 いつもなら、聖女として、あるいは辺境伯の婚約者として、そんな感情は見せないフリができるはずなのに。死線を越えて疲れ果てたわたくしの心は、あまりに素直で、そして(もろ)かった。

 

『なあ、(あるじ)。そんなに辛そうな顔をするくらいなら、さっさと本人のところへ行けよ』

 

 呆れたようなシャドーの声が響く。

 

「シャドー……。でも、今はお話の最中みたいだし……邪魔をしたくないわ」

 

『あの筋肉ダルマには、そんな繊細な気遣いは不要だと思うぞ? ほら、向こうから突っ込んできたな』

 

 シャドーの言葉通り、わたくしに気づいたヴァンが、凄まじい勢いでこちらへ歩み寄ってきた。

 

「どうした、イリス。顔色が悪いぞ、どこか怪我でもしたか!? すぐに休める場所を用意させよう! おーい、レイモンド!」

 

 慌てて大きな声を出すヴァンの腕にすがりつき、必死にそれを止める。

 

「ヴァン、違うの! 違うのよ、その……っ」

 

「ん? どうしたんだ? 腹が減ったのか?」

 

「そうじゃなくて……その……」

 

 助けを求めて視線を向ければ、シャドーは「関わりたくない」とばかりにスーッと姿を消した。もうっ、意地悪な猫ね……!

 

「新しい環境に落ち着かないのか? 大丈夫だ、俺がずっと一緒にいるからな!」

 

 ヴァンのあまりに真っ直ぐな、けれど見当違いな優しさに、わたくしは限界だった。このままでは彼のペースに呑まれてしまう。わたくしは、出発前にセシリア様から授かった「女は度胸よ!」という言葉を胸に、本音をぶつけることにした。

 

「あーもうっ! ヴァンにお疲れ様って言いたかっただけなの! それで、落ち着いたら一緒にご飯を食べようって、誘いたかったのよ!」

 

「おー、そうか! イリスもお疲れ様! 皆が無事に砦に到着できて本当に良かったな! ……ああ、そうだ。ちょうどいい、ミラの妹が衰弱しているんだ。後で診てやってくれるか?」

 

「えっ? 妹さん……?」

 

「ああ。王国で人質に取られていたようでな。元々体が弱いところへ無理をさせられていたらしい」

 

「……すぐに行くわ!」

 

「悪いな。こっちだ」

 

 ヴァンがわたくしの手を掴み、優しく導いてくれる。

 端から見れば、仲睦まじく手を繋いでいるように見えるだろうか。そんな恥ずかしさに顔を赤らめつつも、わたくしは自分からその大きな手を握り返した。

 

 ピクリとヴァンの腕が跳ねる。彼もまた、わたくしを意識してくれている――その小さな反応だけで、先ほどまでの嫉妬が嘘のように消え、喜びが湧き上がった。

 

 案内の途中、一つのテントの前で足が止まる。

 中に聞こえないよう、わたくしはヴァンの耳元に顔を寄せ、密かに囁いた。

 

「……ヴァン、一つ聞いてもいいかしら。ミラさんのこと……処遇はどうするつもりなの?」

 

 二千人の領民の命を預かり、死地を抜けてきた今回の大移動。ミラさんが一度は皆を危機に晒した事実に変わりはない。

 何の罰もなければ、共に歩き抜いた領民たちの示しがつかないはず。わたくしの中の、冷徹な理性がそう問いかけていた。

 

「ミラの処遇か。……彼女には今後、公国の『影』として働いてもらう。レイモンドにも話はつけてある」

 

「公国の、『影』……?」

 

「ああ。妹を公国の監視下に置くことで、表向きは『妹を人質に取られた強制労働』に見せかける。そうすれば領民たちの溜飲も下がるし、何より、あいつが影として実力をつければ、王国に消される心配もなくなるだろ」

 

 ヴァンの言葉に、わたくしは息を呑んだ。

 彼は最初から、ミラさんを罰するためではなく、「守り抜く」ために彼女を社会的に死なせ、新たな居場所を与えようとしていたのだ。

 

(……ああ、なんてこと。わたくしは……)

 

 胸を刺していた嫉妬の残り火が、一瞬で恥じ入るような熱さに変わる。

 彼が他の女性と話しているだけで不安になり、独占したいと願った自分。

 そんな狭い心で彼を見ていた一方で、ヴァンはこれほどまでに深く、不器用で、圧倒的に優しい「救い」を描いていた。

 

(聖女なんて呼ばれているけれど、わたくし、全然だめね。彼の一番近くにいたいと願うなら、もっと強く、気高くならなくちゃ)

 

 俯きかけた顔を、ぐっと上げる。

 嫉妬に溺れていた自分を律し、この不器用なほど優しい人を支えていきたいという決意が、胸の奥で静かに燃え上がった。

 

「……教えてくれてありがとう。さあ、妹さんを治療しましょう。わたくしの全力を尽くすわ」

 

 小さなテントに入ると、そこには横たわる七歳ほどの少女と、彼女に付き添う女性がいた。ミラさんの姿はない。すでに、過酷な「影」の道へと踏み出したのだろうか。

 

「早速、見せてもらえるかしら?」

 

「……っ、お願いします!」

 

 付き添いの女性が慌てて場所を空ける。わたくしは少女の隣に腰を下ろし、静かに診察を始めた。

 幸い、症状は見た目ほど重篤ではない。適切な処置と休養があれば、二ヶ月ほどで快方に向かうだろう。

 

「今日の治療で、胸の苦しさは少し落ち着くわ。けれど、完治までは二ヶ月ほどかかるから、急に動いちゃ駄目よ? しっかり休んで、元気になった姿をお姉さんに見せてあげましょうね」

 

「はいっ……! ありがとうございます、聖女様!」

 

「まあ、お返事がしっかりできて偉いわね。治療もその調子で頑張りましょう」

 

 笑顔で頷く幼い彼女。その光景に、ヴァンの表情も心なしか和らいだように見えた。

 わたくしたちの新しい生活は、今、始まったばかり。

 この朝日が照らす道を、一歩ずつ、彼と共に歩んでいこうと改めて誓うのだった。

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