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第36話 赦されざる救済

 公国の国境に辿り着き、真っ先に出迎えてくださったのはレイモンド殿下だった。ヴァンに「裏切り者の役割を演じろ」と言われ、王国へ情報を流した翌日のことだ。


 本当に『嘆きの谷』で王国軍を迎え撃ち、壊滅させたという知らせを聞いた時、私の背筋は凍りついた。もし、私の演技が少しでも疑われていたら。もし、ヴァンの策が届かなかったら……。二千人の領民すべての命が、私の手から零れ落ちていたはずなのだ。

 

 領民たちが次々と国境を越え、公国軍の保護下へと入っていく。その安堵の喧騒の中、私はただ一人、処刑を待つ罪人のように立ち尽くしていた。

 そこへ、一歩、また一歩と重い足音が近づいてくる。


「おい、いつまでそんな顔をしてる」


 ヴァンの声だ。冷たく、一切の温度を排したその響きに、私は顔を上げることすらできない。視界に入る彼の革靴が、あまりに眩しく、そして遠く感じた。


「……っ、申し訳、ありません……っ」


「下を向くな。向くなら前を向け」


 弾かれたように息を吐き、言われた通りに顔を上げる。

 そこには、王都に捕らわれていたはずの――最愛の妹の姿があった。

 

「お姉ちゃん……っ!」

 

 細い腕が私の体に回る。その温もり、かすかな石鹸の匂い。混乱する頭で、私は妹の命が助かった事実だけを必死に受け止めた。私の裏切りという大罪が消えたわけではない。それでも、この子の命だけは繋がった。それこそが、私のすべてだったのだから。


「……っ、どう、して……! 裏切った私を、あんなに酷いことをした私を……っ!」


「……勘違いするなよ」


 (すが)るような私の声を、ヴァン様は一瞥(いちべつ)で切り捨てた。

 

「お前が流した偽情報のおかげで、敵の精鋭を無駄足にさせられた。その『働き』に対する報酬だ。公国で死ぬ気で働いて、この貸しを返せ」


「……ううっ! か、必ず……っ!」


「お前の処遇は俺が決める。お前は今日限りで『バルクレイの兵士』ではない。公国が預かる『消耗品』だ。……レイモンド、そっちの『影』の連中に引き渡せ。使い潰そうが壊そうが好きにしろ」


「ああ、承知した。こちらで有効に活用させてもらおう」


 レイモンド殿下が頷く。ヴァン様はさらに声を落とし、氷のような冷徹さで私を射抜いた。


「ミラ、妹の面倒は公国が見る。だが、お前が少しでも不審な動きを見せれば、この子の『保護』は即座に打ち切りだ。……分かったな? お前の命は、もうお前一人の物じゃない」


 その宣告を聞き、周囲にいた領民たちが「当然だ」「裏切り者め」「生かしておくだけ慈悲深い」と、忌々しげに吐き捨てる。

 私を突き刺す無数の冷たい視線。ヴァン様は私を庇うこともなく、ただ一人の罪人として、その嘲笑の中に私を置き去りにした。


「か、かしこまりましたっ……!」


 私は妹を抱きしめたまま地に額を擦りつけ、必死に誓った。もう二度と裏切らない。この地獄のような負債を、一生かけてでも返すと。

 

 ヴァンは一度も振り返ることなく、聖女イリス様が待つ光の中へと歩み去っていく。その大きな背中が遠ざかり、見えなくなろうとした時、不意にレイモンド殿下が私の耳元へそっと口を寄せた。

 

「……ヴァンがね、『公国への亡命を受け入れる条件』の一つとして、極秘に君の妹さんの救出を依頼していたんだよ。絶対に、誰にも知られないようにね」


「……えっ?」


 あまりの言葉に、私は涙を忘れて硬直した。

 

「本当に、お人好しなカップルだよねえ、あの二人。似た者同士というか……君が自分を(ゆる)せないと分かっているから、あえてあんな『役割』を強いたんだろうね」


「……あ、あ……うああ……っ!」


 嗚咽が止まらなかった。

 私に「消耗品」という名目を与え、妹を「人質」という名の保護下に置くことで、裏切り者の私をバルクレイからも王国からも守ろうとしてくれた。そのあまりに不器用で、深すぎる慈悲。

 

 遠ざかるヴァンの逞しい背中を見つめ、私は魂に刻みつける。

 もう二度と、裏切らない。私の命が、この世界のゴミとして使い潰されるその瞬間まで。

 

 レイモンド殿下は「君も大変だったね。ゆっくり休むといい」と、慈しむように私の肩を叩き、他の領民たちの元へ向かわれた。この人にも、いつか必ず報わなければならない。

 

 愛する家族を天秤にかけたとはいえ、私は一度、彼らを捨てた。

 それなのに、あの人たちは私を捨てなかった。

 ……ああ、本当。あの二人には、一生かかっても敵わない。

 

 私は涙を拭い、妹の柔らかな髪を撫でた。ふと、目の前に長い影が差した。

 

「ミラ、と言ったな。……行くぞ。お前の居場所は、陽の当たるところにはない」

 

「はい。……よろしくお願いします」

 

 妹の手を優しく離し、私は『影』の男の後を追った。

 足音一つ立てずに歩くその背中に続きながら、私は自分自身の「名」を捨て、静かに闇へと溶けていった。

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