第34話 沈黙の誓約、恐怖が紡ぐ忠誠
俺と親父の二人で待ち受けていた『嘆きの谷』では、殺気に怯える馬たちの嘶きが、夜の静寂を無惨に引き裂いていた。
鈍感な人間などよりも、野生を色濃く残す馬たちは、俺と親父が放つ殺気がどれほど致命的なものであるかを本能で理解したらしい。
まだ指一本動かしていないというのに、馬たちは狂ったように逃げ出そうと暴れ、泡を吹いて倒れるものさえいた。当然、その背に乗っていた兵たちは無様に振り落とされ、逃げるための『足』すら失ってしまったのだ。
「あーあ。人間より馬の方が、よっぽど引き際の弁え方を知っているみたいだな」
「本能で死を悟ったのだろう。飼い主が未熟だと、馬も不憫なものだ」
親父の言葉は、嘲笑ですらなかった。ただの事実として、目の前の兵士たちを「馬以下の存在」として切り捨てる冷徹な響き。
王国兵たちは、自分たちの愛馬がこれほどまでに怯える姿を初めて見たのだろう。抜こうとした剣が、ガチガチと鞘の中で音を立てている。
自分たちが踏み込んだのが、ただの谷ではなく「神の逆鱗」の上だったのだと、今更ながら後悔の色が顔を覆っていた。
「このままでは馬たちが可哀相だ。おい、お前。隊長と呼ばれていたな?」
俺が指差すと、隊長と呼ばれた男は、ひっ……と喉を鳴らして数歩後ずさった。
「その震える手で馬を繋いでこい。逃げなきゃ、お前だけはサシで勝負してやるよ。英雄の首を取る、またとない好機だろ?」
「あっ! ヴァン、抜け駆けだぞ。私にもやらせてくれ。愛しの妻は血生臭いことを嫌うからな。今日ここで発散しておかなければ、帰ってから怒られてしまう」
「親父、百人もいるんだ。一人くらい、骨のある奴が相手をしてくれるだろうよ」
俺たちが談笑している間、王国兵たちの間には、絶望という名の伝染病が広がっていた。誰一人として、俺たちの目に視線を合わせられない。
「こ、降参します……!」
「参りました! 助けてくれ、戦いたくない……!」
一人が膝をつけば、それは雪崩のようだった。誇り高き王国の精鋭たちが、一度も剣を交えることなく、地に頭を擦り付け始めたのだ。
「そんな――。全員が降参したら、暴れられないじゃないか」
親父が心底つまらなそうに溜息を吐く。その溜息一つで、兵士たちがビクリと肩を跳ねさせる。
「はあ……。おい、隊長。お前だけは親父の遊び相手になれ。親父、それでいいな?」
「ああ、いいぞ! 稽古どころか、お前たちが現れるまで何時間も待たされたんだ。存分に――可愛がってやろう」
「そ、そんな……助けてくれっ! おい、お前たち、何とか言え!」
隊長が必死に部下たちへ視線を送るが、彼らは一様に目を逸らした。
昨日まで肩を並べていた戦友が、今は自分を「生贄」として戦神に差し出そうとしている。その醜い光景を、俺は冷めた目で見つめた。
「なんだ。お前も降参するのか? まだ剣の一振りすら交えていないというのにな」
俺は一歩、また一歩と、腰が抜けて座り込んだ隊長へ歩み寄る。
俺の影が彼を完全に飲み込んだところで、にやりと口角を上げた。
「……おい。腰が抜けているぞ、王都の『精鋭』さん」
ヴァンの低い声が響く。それは揶揄ですらなく、ただ事実を指摘するだけの無機質な響き。
その「温度のなさ」こそが、死線を越えてきた者だけが持つ、本物の恐怖だった。
「ひ、ひぃっ……!」
隊長が喉を鳴らし、這いつくばったまま後ずさる。
百人の兵士たちは、もはや一兵も剣を握っていない。ただ、眼前に立つ二柱の戦神が、いつ自分たちを「掃除」し始めるのかという恐怖に、魂を凍らせていた。
「いいか、お前たち。条件は一つだ」
ヴァンが、月光を浴びる刃を鞘へと戻す。その金属音さえ、彼らには処刑の鐘の音に聞こえただろう。
「俺たちは死んだ。……バルクレイの領民は、嘆きの谷の地割れに飲み込まれ、英雄ヴァレントとその父も、魔物の群れに食い荒らされた。……王都には、そう報告しろ」
「そ、そんなデタラメを……」
「……できない、と言うのか?」
親父が、一歩、歩を進める。
それだけで、最前列の兵士たちが失禁せんばかりに顔を歪めた。
「できます! やります! バルクレイは全滅しました、我々が、我々が見届けました!」
「物分かりが良くて助かる。……おい、シリル。隠れて見てないで出てこいよ。お前への『手土産』だ」
ヴァンの呼びかけに応えるように、岩陰から静かに一人の青年が姿を現した。
第二王子、シリル。
王国では「温厚で目立たない王子」と評されている彼が、この地獄のような殺気の中に、眉一つ動かさずに立っている。その異様な光景に、兵士たちは息を呑んだ。
「……シリル殿下……!? なぜ、ここに……」
「彼らは、私の大切な友人たちでね。……君たちが彼らに『失礼』を働かなくて、本当に良かった」
シリルは穏やかに微笑んだ。だが、その背後には戦神二人が控えている。
本当に王都へ帰ったのは王女と、王女の護衛である『氷の魔術師』だけだったのだ。敵を欺くには、まず味方からだ。
兵士たちの脳内には、一つの凄惨な方程式が完成した。
【第二王子に逆らう=あの戦神たちが夜闇に紛れて自分たちの首を獲りに来る】という、絶対的な死の恐怖だ。
「この者たちは、私が預かろう。……ヴァン、君たちが望む『死の報告』は、私が責任を持って王都へ届けさせる。この百人の『証人』と共にね」
「おう、助かる。……お前たち、聞いたか? これからはシリルの命令が、俺たちの命令だと思え。もしシリルを裏切るような真似をしてみろ。……地の果てまで追いかけて、お前たちの身内ごと『掃除』してやるからな」
ヴァンの冷徹な宣告に、百人の兵士は一斉にシリルに向かって、祈るように深く額を地面に擦り付けた。
もはや彼らにとって、シリルは「格上の王族」ではない。「化け物を飼い慣らす、自分たちの唯一の防波堤」となったのだ。
「シリル、お前も達者でな! 親父、行くぞ」
「ああ。シリル殿下、後の処理はよろしくお願いしますぞ」
木陰で寝ていた漆黒号と、イリスに借りたアンバーの二頭が、主の呼びかけに応えて顔を出した。
俺と親父は、震える兵士たちと、静かに微笑むシリルを背に、闇へと消えていく。
背後から、シリルが兵士たちを整列させる凛とした声が聞こえてきた。
その声に、かつての傲慢な「王都の精鋭」の面影はない。ただ、生に縋り付く忠実な猟犬たちの返事だけが、谷底に響き渡っていた。




