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第33話 死線を越えし戦神、その静かなる凄み

 深い闇が支配する『嘆きの谷』。かつて幾多の戦士が命を落とし、その名の通り死者の啜り泣きが聞こえると言い伝えられる不吉な場所に、今、二千人の領民が身を寄せ合っている……はずの光景が広がっていた。

 

 俺と親父が仕掛けたのは、古びた軍略の一つ『火牛の計』をバルクレイ流にアレンジした『火石の計』だ。数百本の松明を、あたかも行列が休んでいるかのように等間隔に配置し、その下にある手頃な大きさの石には、領民たちが置いていった古着を被せてある。

 

 夜風に揺れる炎は、遠目には怯える人々の震えに見えるだろう。しんと静まり返った谷底。だが、その静寂こそが、ミラが流した「偽情報」に信憑性を与える最高のスパイスとなっていた。相手がこの「静かなる嘘」をどこまで信じるか……。正直、博打に近い。だが、賭ける価値は十分にあった。


 その頃、本物の「生きた二千人」は、月明かりさえ遮るほどに草木の生い茂った西の険しい山道を、音もなく粛々と進んでいた。

 統率を取るのは、聖女イリスと俺の母上だ。

 

 木の根に足を取られそうになる幼子の口を母親が優しく押さえ、重い荷物を背負い足元がおぼつかない老人の手を、若者たちが無言で引く。二千人という巨大な集団の移動は、通常であれば隠し通せるものではない。だが、この不毛の地で、常に魔物や死と隣り合わせで生きてきたバルクレイの民は、自らの気配を殺して歩く術を、生きる知恵として身につけていた。


 木々のざわめきに吐息を紛れ込ませ、影から影へと、まるで巨大な黒い蛇のように移動するその姿は、一つの意思を持った大きな生命体のようでもあった。

 

「ヴァン様なら大丈夫。私たちはただ、彼が作ってくれたこの道を信じて進みましょう」

 

 そう言って、不安に押し潰されそうな領民を凛とした声で鼓舞するイリス。別れ際、不安に瞳を揺らしながらも、俺の胸に縋った、あの潤んだ瞳が、今もまぶたの裏に焼き付いて離れない。今すぐにでも魔馬を飛ばし、彼女の元へ駆け戻って、その震える小さな肩を抱き寄せたい。だが、今はまだ、俺がこの死地の門番として、血に飢えた獣どもを食い止めなければならないのだ。

 

「英雄ヴァレント=バルクレイ! 国王からの勅命である! ただちに武器を捨て、王都へ出頭せよ!」


 夜の静寂を無遠慮に切り裂く、傲慢な怒声。

 ついに、獲物が罠にかかった。

 レイから預かった『影』の報告通り、功名心に目を眩ませた王国兵たちは、吸い寄せられるようにこの「囮の谷」へと全速力で突っ込んできたのだ。俺は鼻でせせら笑い、重い腰を上げた。

 

「嫌なこった。我らがバルクレイ領は、前回の遠征で半数以上の兵が出兵し、多大な犠牲を払っている。この度の戦争に、これ以上の戦力を出す必要は無いはずだ。……陛下もそう約束されたはずだろう?」

 

「何度も言わせるな! 陛下が『行け』と仰れば、それが絶対の理だ! 英雄だろうが何だろうが、辺境の(いぬ)に拒否権など無い!」

 

「横暴が過ぎるな。俺の体はまだ、先の大戦で負った傷が癒えきっていないんだ。それを無理やり戦場へ引きずり出そうというのか?」

 

「貴様の事情など知ったことか! これは勅命だ! 言うことを聞かなければ、そこに立っている辺境伯――貴様の父親の首が飛ぶことになるぞ! 分かったらさっさと跪け!」


「ほおー。ぶっとい首を飛ばすのは、大変だろうなあ。なあ、親父」


「ははは、私の首を飛ばすか。それはまた、随分と骨の折れる仕事を引き受けたものだな。……はあ。もう、この国には一滴の未練も残っていない。我々を心底案じてくれているのが、自国の王ではなく他国の王族だとは……皮肉なものだな」

 

「何をブツブツと遺言を並べている! これは決定事項だ! 断れば、そこに縮こまっている領民どもを一人残らず――」

 

 隊長とやらの言葉が途切れる。一人の兵士が、松明の明かりの下に横たわっている『人影』に歩み寄り、その正体を見て悲鳴を上げたからだ。

 

「た、隊長! 領民ではありません! ただの石ころです!」


「は? な、なにぃっ!?」


「……馬鹿なのか? 俺ですらあまりに問題がなさすぎて、疑いたくなるほどだったぞ?」


「貴様……はかったな! あの女剣士、裏切りおったか!」


「女剣士……ミラのことか? 勘違いするな。彼女は完璧に仕事をこなした。お前たちに望み通りの『情報』を届けたんだ。こちらが一枚……二枚ほど上手だっただけでな!」


 俺は鼻で笑い、驚愕に目を見開く隊長を冷たく見据えた。

 ふと、隊長が俺の隣を見て、喉を鳴らしてひきつった声を上げた。

 

「なっ……辺境伯はどこへ行った!?」

 

 つい数秒前まで俺の隣に悠然と立っていたはずの親父の姿が、闇に溶けるように消失していた。

 混乱に陥り、前後左右を見渡す王国兵たちの背後。退路を完璧に断つように、谷の出口側の闇から、低く、腹に響くような重厚な声が(とどろ)いた。

 

「……私の首を飛ばすのは大変だと言っただろう。首を洗って待っていたのは、お前たちの方だったな」

 

 王国兵たちが、まるで怪談でも聞いたかのように青ざめ、悲鳴を上げて振り返る。

 そこには、いつの間にか敵の隊列を音もなく迂回し、唯一の退路を封鎖した親父が、月光を反射する抜き身の剣を手に立っていた。

 

「ば、馬鹿な……いつの間に後ろへ……!? まったく気配がなかったぞ!?」

 

「……馬鹿はお前だ。俺が一人で喋っている間に、親父が大人しく遊んでいるとでも思ったか?」

 

 俺は冷たく突き放すと同時に、愛剣を鞘から引き抜いた。

 戦場での立ち回り、隙を突く呼吸の読み合い、そして一度狙った獲物を決して逃さぬ包囲網の張り方。俺の知略も、この「戦場を支配する感覚」も、すべてはこの親父から地獄のような特訓で叩き込まれたものだ。

 

「残念だったな。俺たちの『バルクレイ』は、もうこの国を出た。……ここから先は羽虫一匹通さん。二千人の命の重さ、地獄への土産に持っていけ」


 月光を吸い込んだ二振りの刃が、絶望に染まる百人の軍勢を、前後から静かに包み込んだ。


「だ、黙れっ!」


 隊長が剣を抜こうとした。だが、その手は目に見えて震え、鞘から刃を滑らせることさえできない。

 目の前にいる二人は、何もしていない。ただ、息を吸い、吐いているだけだ。

 なのに、彼らの呼吸一つ、指先の動き一つが、自分たちの死に直結していることを本能が理解してしまう。

 

「……おい。腰が抜けているぞ、王都の『精鋭』さん」

 

 ヴァンの低い声が響く。それは揶揄(やゆ)ですらなく、ただ事実を指摘するだけの無機質な響き。

 

 その「温度のなさ」こそが、死線を越えてきた者だけが持つ、本物の恐怖だった。

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