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第32話 命の重さと責任

 日が暮れ、辺境特有の刺すような冷気が闇と共に降りてきた頃。私は盗み聞きしたヴァンの密談を頼りに、進軍予定地である『嘆きの谷』へと向かっていた。

 

 レイモンド殿下は『裏の道』を開くと言っていた。それがこの谷のどこかにあるはずだが、三歳からここで剣を振るってきた私でさえ、そんな道は聞いたことがない。けれど、確認しなければならない。もし私が偽りの情報を王都へ送れば、人質となっている妹は、明日を待たずに殺されてしまうだろう。

 

 私は、自分の足音さえも「裏切りの証」のように感じて、震える膝を叱りつけながら、深い闇が口を開ける谷の入り口へと辿り着いた。

 

「……来たか」


 地を這うような低い声に、私の心臓は跳ね上がった。

 谷の入り口、岩陰から現れたのは、松明も持たずに闇に溶け込んでいたヴァンと、その父であるおじ様だった。

 

「ミラ……どうしてだい? 本当に我々を、バルクレイを裏切ったのかい?」

 

 おじ様の瞳に宿る、深い失望と悲しみ。幼い頃、両親を失った私と妹の手を引き、「今日からはここがお前の家だ」と笑ってくれたあの温かな手が、今は遠い。恩を返すと誓って振るってきた私の剣は、今、おじ様の胸を狙う「刃」へと成り下がっていた。

 

「ごめんなさい、おじ様、ヴァン……。私には……私にはもう、何も守ることはできなかった……っ!」

 

「泣くな、ミラ。取り乱して甘えるな」

 

 ヴァンの声は、氷のように冷たかった。月明かりに照らされた彼の顔には、幼馴染の面影など微塵もない。そこにいたのは、二千人の領民の命を双肩に背負った、冷酷なまでに正しい「英雄」だった。

 

「お前一人だけの問題じゃない。二千人の命がかかっているんだ。その涙で、犯した罪を洗い流せるとでも思っているのか?」

 

「私には、選択権なんて無かったのよ!」

 

 愛する人に、最も見せたくなかった「裏切り者」としての姿を暴かれ、私の感情は決壊した。

 

「殺してよ、ヴァン! 責めるなら私だけを殺して、ここで終わらせて! ……だって、私には、選ぶことなんてできなかった! 断れば、あの子()の首が届くと言われたのよ! 辺境の仲間を売るか、たった一人の肉親を見捨てるか……そんなの、選べるわけないじゃないっ!」

 

 喉が張り裂けるほどの叫び。涙で視界が滲み、ヴァンの表情さえ見えない。

 けれど、ヴァンは私を斬り捨てなかった。それどころか、死よりも残酷な言葉を、淡々と告げたのだ。

 

「そうか。なら、徹底的に裏切れ。お前が完璧に俺を売れば、敵もその『報奨』を支払うだろう。……妹の命が惜しければ、死に物狂いで俺を売ってみせろ」


 ヴァンが私の顎を強引に掬い上げ、至近距離で冷たく言い放つ。その瞳に、かつて私を「相棒」と呼んだ温もりは欠片も残っていなかった。

 

「王都へ報告しろ。我々は明日の夜、『嘆きの谷』を抜けて国境を越えるとな。一文字でも違えば、その瞬間に貴様の首を吊るしてやる」


 おじ様に視線を向けたが、私に裏切られたショックで愕然として俯いていた。ああ、私のことでそんなに落ち込まないで。本当に申し訳ない……。悔いる私に、ヴァンは続ける。

 

「……家族を助けたいんだろう? なら、最後まで『裏切り者』の仮面を剥がすな。完璧に裏切り者の顔をしてみせろ。お前の情報が『真実』だと敵が信じるまでな」


 至近距離で私を見下ろすヴァンの、厳格な眼差し。彼の匂い。彼の熱。

 裏切り者として処刑される未来を突きつけられながら、私はこの絶望的な近さに、胸の高鳴りを隠せなかった。

 

(この瞬間だけは、ヴァンは私のものよ。こんな時でも、あなたは私の気持ちなんて少しも気づいていないんでしょうけどね……)


 貴方の瞳に映る、エクリシア家の清らかな聖女様。

 彼女のような「光」には、逆立ちしたって勝てっこない。

 私はもう、自分の手も魂も、裏切りの泥で汚してしまったのだから。


 ヴァンは、妹を助けるとは一言も言わなかった。

 それどころか、私の裏切りを逆手に取り、軍略の『盾』として私を地獄へ突き落としたのだ。

 

(……ああ、これが私の望んだ結末なのね)

 

 ヴァンに蔑まれ、仲間を地獄へ送る手伝いをして、その果てに使い捨てられる。

 妹が助かる保証なんてどこにもない。それでも、私はこの悪魔の誘いに乗るしかなかった。

 

「……分かったわ。完璧に、裏切ってみせる」

 

 震える声で答えた私に、ヴァンは二度と視線を合わせることはなかった。

 

「行け、裏切り者。……夜明けまでに報告を済ませろ」

 

 突き放すような彼の声に、私の心は音を立てて砕け散った。

 私の手元に残ったのは、懐にある妹の冷たいリボンと、愛する男から与えられた「裏切り」という名の重責だけだった。

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