第31話 残酷な現実、歪んだ願い
王都から辺境へと暗い気持ちで帰ってきた私は、目の前の光景に驚きを隠せなかった。
王都では、傷ついた兵士は使い捨てだった。けれどここでは、欠損したはずの戦友が笑って鍬を握っている。その光景が、私には何よりの奇跡に見え、同時に毒のように胸を刺した。
そして、この不毛の地に『麦』が実り、子供たちが走り回って喜んでいる。その光景にはさすがに驚いたが、信じるしかなかった。
「お帰り、ミラ。稽古は明日の朝からな!」
ニカッといつもの笑顔で迎え入れてくれた幼馴染のヴァンは、一年ぶりに見ても素敵だった。
(……私は彼を……領の皆を裏切らなければならないんだ……)
暗い部屋で、冷笑を浮かべた貴族が私に突きつけたのは、妹の小さなリボンだった。……あの時から、私の剣は私のものではなくなってしまったのだ。
今も懐に隠し持っているそのリボンの端が、まるで妹の冷たくなった指先のように思えて、私は手の震えを止めることができなかった。
考えては胃が痛くなる。こんなのは初めての経験だ。
それもそうだろう。私は三歳から剣を握り、この年になるまで剣一本で生きてきたのだ。畑仕事はたまに手伝っていたが、それはヴァンが「鍬を振るうと足腰が強くなるんだぞ!」と楽しそうに畑を耕すから、一緒にやっていただけだ。
だから、頭を使って考えることが苦手なんだ。
ただでさえ王都からの命令に頭を抱えているのに、なぜかヴァンの屋敷に住み着いている聖女……。考えなくてはならないことが多すぎた。当然、私の頭はキャパオーバーとなり、隙ができていた。
いつもなら軽々と受け流せていたはずの一撃。けれど、今の私の手は、雇い主からの「命令」の重みで鉛のように重い。
「……ミラ、今の踏み込みは何だ。死にたいのか?」
ヴァンの声は、昔と変わらず低くて心地よかった。けれど、案じるようなその響きが、今の私にはどんな責め苦よりも鋭い刃となって胸を抉る。
それから程なくして、私は肩を斬られる怪我を負った。
痛みはあったはずなのに、それ以上に「彼に見限られる」恐怖で頭が真っ白になる。駆け寄ってきたヴァンの、汗と泥が混じったような懐かしい匂いが鼻をくすぐった。
無意識に縋ったヴァンの腕に、聖女が反応したのが見えた。ああ、聖女もヴァンを愛しているのか。私は二人に、心からの「おめでとう」を言えるのだろうか。
ヴァンが私の肩に手をかけ、包帯を巻いていく。その大きな掌の温もりが伝わるたび、私は自分の中の「裏切り」が黒く膨れ上がっていくのを感じた。
「お前、最近腕が鈍っているぞ。……何か悩みでもあるのか?」
いつもならその鈍感さに笑って返せたはずなのに、今はその真っ直ぐな瞳を見るのが、何よりも恐ろしい。ヴァンの問いかけに、声を出そうとすれば、嗚咽までもが漏れてしまいそうだった。だから私は、唇を噛み切りそうなほど強く結び、ただ沈黙を貫くしかなかった。
ヴァンは聖女が好きなのだと、一緒に訓練した仲間が言っていた。そして、彼が聖女を半ば無理やり連れてきたのだとも。
聖女が微笑むたび、領民の心は救われていく。その眩しさに、私は目を逸らすことしかできなかった。彼女は光で、私はその光を食い破る影なのだ。
私だって、彼の近くで役に立ちたかった! ヴァンを想う気持ちと、妹という人質を取られたことへの絶望が、私の体を蝕んでいく毒のように思えた。それでも私は、領の皆を裏切ることを決意した。
私には、王都に残した唯一の肉親である、幼い妹を見捨てることはできない。きっとヴァンなら、私が裏切ってもきっと生き残れるはず。でも、妹は私がいなければ死んでしまう。
私の命で何とかなるのであれば差し出そう。剣士となった時、すでに死は覚悟している。だが、私の命を賭しても、妹は助けられないのだ。私には選択権なんて無かった。絶望的な天秤にかけられた末の選択……。きっとヴァンは許してくれないだろう。小さい頃から大好きだった幼馴染の彼。
「……ごめんね、ヴァン」
誰にも聞こえないほど小さな声で呟き、私は懐に隠したリボンの端を、指先が白くなるほど強く握りしめた。
その冷たい感触は、今にも千切れてしまいそうな妹の命そのもののようで、私は喉元まで込み上げる嗚咽を必死に飲み込む。
夕闇に沈んでいく辺境の空を、私はただ、涙で歪む視界の端で見つめることしかできなかった。
たとえこの魂が、二度と救われない闇に堕ちようとも――。




