第30話 小さな綻びから見えた景色
王子たちを見送り、辺境に夕闇が迫り始めた頃。静寂を破るように、練兵場から鋭い悲鳴が上がった。
実力者であるはずのミラが、訓練中に初歩的なミスを犯し、自身の剣を捌ききれずに肩を深く斬ったという。
治療の準備を整えて待つイリスの元へ、不機嫌そうな顔のヴァンが、なかば強引にミラを連行してきた。
「大丈夫だから! こんなの、放っておけばすぐに治る!」
ミラは治療を拒むように肩をすくめ、イリスから顔を背けた。その横顔は、怪我の痛み以上に、何か堪えがたいものに耐えているように強張っている。
(……なぜ、彼女はこれほど治療を嫌がるんだ? 痛みも消え、すぐに日常に戻れる。戦士なら、聖女の癒やしは何よりも望むものだろうに)
オイラ――シャドーは、イリスの肩に乗りながらその様子を観察していた。
ミラの拒絶は、単なる強がりではない。イリスの清らかな瞳に見つめられることに、耐えられないといった風だ。そんな彼女の手が、不意にヴァンの逞しい腕を掴んだ。
その瞬間、イリスの眉がぴくりと動くのをオイラは見逃さなかった。
「ムッ」とした、というよりは、胸の奥を小さな針で突かれたような、そんな切ない表情。聖女という立場が彼女を律しているが、一人の少女としての独占欲が、一瞬だけ表に溢れ出していた。
「……そんなに治療をさせたいなら、ヴァンがやってよ。魔法はいらない。包帯だけでいい」
ミラがヴァンに送る視線。それは「尋常ではない熱」を帯びていた。愛慕と、何かに縋るような必死さ。鈍感なヴァンを除けば、誰の目にも明らかなほどの情念だ。
「はあ。仕方ない、俺がやる。……イリス、道具を借りるぞ」
ヴァンはため息をつき、イリスから受け取った救急箱を開けた。戦場を生き抜いてきた男の手つきは器用で、ミラの白い肌に素早く包帯を巻いていく。
「お前、最近腕が鈍っているぞ。……何か悩みでもあるのか?」
ヴァンの問いに、ミラの顔がさらに歪んだ。沈黙は重く、彼女はただ、ヴァンの手元の感触に全てを委ねているように見えた。
それから数日、オイラは主の命もあり、ミラの周辺を洗ってみることにした。
彼女がヴァンに送る視線は、日に日に危うさを増している。ヴァンが作戦を練っている時も、イリスと笑い合っている時も、彼女は影から、自分を燃やし尽くすような瞳で彼を追っていた。
「シャドー。……彼女のこと、どう思う?」
『さあね。ヴァンが気づくまでは放置するしかないだろう。主、あんたが首を突っ込むと、さらにややこしくなりそうだ』
イリスは呆れたように溜息をついたが、その瞳には聖女としての深い懸念が宿っていた。
『……それにしても、あんな腕のいい女剣士が、なぜ今まで目立たなかったんだ? 戦争中は前線にいなかったと聞いたが』
「挨拶程度はしたけれど、彼女、この一年間はここを離れていたのよ。王都の伯爵令嬢から『腕の立つ女の護衛が欲しい』と指名があって、駆り出されていたらしいわ」
イリスの言葉に、オイラは小さな違和感を覚えた。
戦争が終わってすぐの混乱期に、貴重な戦力をわざわざ遠方の護衛に出すだろうか。あの辺境伯が、そんな依頼を安々と受けるとは思いにくい。
気になって調べてみると、その「伯爵令嬢」は第一王子派に近い貴族だった。
――繋がった。
ミラがこの一年、どこで誰に「弱み」を握られていたのか。そして、なぜ今になって戻り、これほどまでに不安定なのか。
そんな不穏な空気を、当の本人は微塵も感じ取っていない。
『……おい、ヴァン。あの女の視線、気づいてないのか? 焼け死にそうなほど熱いぞ』
隙を見てオイラが囁くと、ヴァンは訓練用の木剣を振りながら、あろうことか満足げに頷いた。
「あ? ミラか? ああ、あいつは昔から訓練熱心だからな。俺の動きを盗もうとしてるんだろ。いい傾向だ」
『…………なるほど。天才の考えることは分からん』
オイラは、隣で心底呆れ果てたようにため息をつく主――イリスの肩を、そっと叩いてやった。
この鈍感な英雄に振り回される主の苦労を思うと、さすがのオイラも憐れみを禁じ得なかった。




