第29話 岐路に立つ辺境
ヴァンとイリスが、指先をインクで黒く染めながら日夜書き上げた「第二王子支持」の書状。その山のような束を馬車に積み込み、シリル殿下たちは王都へと引き返すこととなった。
辺境伯領への滞在はわずか二日。これ以上の長居は、王都の政敵たちに「謀反の嫌疑」という格好の餌を与えることになる。
出発の直前まで、シリル殿下と辺境伯、そしてヴァンは地図を囲んで言葉を交わした。
役割は明確だ。シリル殿下は王都で「第一王子派」の足止めと政変の火種を煽り、ヴァンはここ辺境で、迫りくる王国軍を誘い込みつつ、全領民を公国へ逃がす。
「恐らく、この書状がバラ撒かれた瞬間、王国という巨大な天秤は激しく揺れる。……そして、それは必ず明るみに出るだろう。英雄と聖女の直筆が添えられた書状を、隠し通せるほど人間は賢くないからな」
シリルの重々しい言葉に、ヴァンは鼻で笑って応じた。
「だろうな。あれだけの枚数だ、どこからか漏れるのが道理だ。むしろ、漏れてもらわなきゃ俺たちの計画が進まない」
「ふふ、相変わらず不敵だね。だが、失敗すれば王都から本気の討伐軍が差し向けられる。被害を出さずに二千人の領民を移動させるのは至難の業だ。公国側も、国境での受け入れ態勢を最大級に整えて待っているよ」
公国のレイモンド殿下が、ヴァンの肩に親愛を込めて手を置いて頷く。
王国の第二王子、公国の第一王子、そして辺境を統べる親子。本来ならば歴史の濁流に飲み込まれ、相容れないはずの者たちが、今、一つの「賭け」のために固く握手を交わした。
「不測の事態は避けたいが、何かが起きればすぐに報せると約束しよう。……辺境伯閣下、これ以上の密談は壁に耳ありだ。そなたたちの無事な行軍を、心から祈っている」
「ああ、感謝する。次に会う時は、隣り合う友好国の王として、だな。楽しみにしているぞ」
ヴァンの相変わらず不遜な物言いに、辺境伯はひやひやとした顔をしたが、シリルはそれを快く受け流した。この二日間で、彼はヴァンの不器用な誠実さを理解したのだろう。
「ははは! そうなれるよう、死ぬ気で働くとしよう」
へらりと笑ったシリルの顔から、次の瞬間、甘さが消えた。彼は馬車のステップに立ち、見送りに集まった領民たちを真っ直ぐに見据えた。
「バルクレイ領の民たちよ! 私は知っている。三年前の戦争で、諸君らがどれほどの犠牲を払い、この国を守り抜いたか。王族の一員として、今の不遇を心から詫び、そして――感謝を伝えたい。本当に、ありがとう」
公に頭を下げることなど許されないはずの王子と王女が、民に向けて深く、はっきりと頭を下げた。
その真摯な姿は、理不尽な土地へ追いやられた領民たちの心に、一つの確信を刻んだ。
『この人たちなら、自分たちの未来を預けられる』と。
広場には、すすり泣きと、静かな決意を秘めた歓声が響き渡った。馬車が見えなくなるまで手を振り続けた後、レイモンド殿下もまた、自身の馬車へと足を向けた。
「さて、僕も一旦公国に戻り、君たちのための『新しい家』を準備してくるよ」
レイモンドが側近のジョルジュに目配せすると、影から一人の男が音もなく現れた。
「ヴァン、あとは頼んだよ。隠密専門の『影』を一人置いていく。緊急時は彼を使え。それから、国境の『裏の道』を開くよう手配しておくから、安心して進むといい」
「……恩に着る」
「あはは! 全然感謝されている気がしないな、相変わらず!」
「いいから早く行け。俺たちも、ここを畳む準備で忙しいんだ」
「手厳しいね。それじゃあ、愛しの聖女様もお元気で!」
レイモンドの軽口に、イリスは小さく微笑んで頭を下げ、ヴァンは「がうっ!」と威嚇する白い神獣のように、王子を追い立てるように睨んだ。馬車が走り去り、辺境に再び静寂が訪れる。
領民たちがそれぞれの仕事に戻り始めた頃。ヴァンは父である辺境伯を促し、屋敷の執務室へと入った。
扉を閉める際、ヴァンはわざとラッチを深くかけず、数ミリの隙間を残した。それに気づいた辺境伯が怪訝そうな顔をしたが、ヴァンは無言のまま地図を広げる。
「親父、レイモンドが言っていた『裏の道』だが……」
ヴァンはわざと声を少し落としつつ、それでも廊下に漏れる程度の明瞭さで話し始めた。
「例の『嘆きの谷』を通るルートか。あそこは足場が悪く、今の時期は落石も多いはずだが……本当にあそこを使うのか?」
辺境伯も、ヴァンの意図を察したのか、声を潜めて応じる。
「ああ。正規の街道は王国軍の監視が厳しすぎる。だが『嘆きの谷』の旧道なら、公国が極秘に用意した転移門の跡地に繋がっているはずだ。あそこなら、二千人の領民を数回に分ければ、明後日の深夜には全員逃がしきれる」
「……明後日の深夜か。時間はあまりないな」
「ああ。失敗は許されない。この計画を知っているのは、俺たち親子とイリス、あとは……俺が信頼している数人の精鋭だけだ。他には絶対に漏らすなよ」
「分かっている。……しかし、本当にあそこを……」
二人の会話が途切れ、羊皮紙を丸める音が響く。
その間も、ヴァンは研ぎ澄まされた感覚で、扉の向こう側の「気配」を探っていた。
ほんの僅かな、衣擦れの音。そして、呼吸を止める気配。
それはヴァンがよく知る、鍛え抜かれた者の気配だった。
……やっぱり、食いついたか。ヴァンの唇が、自嘲気味に、あるいは狩人のような鋭さで微かに歪む。
罠は仕掛けられた。あとは、誰がその偽りの希望を「王国」へ売り渡すのかを確認するだけだ。
「……さて。俺も準備がある。イリスの様子を見てくるよ」
ヴァンが扉に向かって歩き出すと、外の気配は音もなく、風のように消え去った。
その去り際の足音の主が誰であるか、ヴァンにはもう、分かっていた。




