第3話 雨に消える足音、寄り添う影(シャドー)
数年ぶりに、オイラの主が帰ってきた。ここはエクリシア侯爵家。でも、主の両親は天国に行ってしまったのだと、家令だったジョセフがオイラの亡骸に向かって話しながら泣いていた。
それが数年前……オイラには年月の感覚がない。ジョセフたちが「何年経った」と毎年同じ花が咲く時期に言っているから、そうなのだろうと思う。
エクリシア侯爵家の門前でずぶ濡れの主は、急いで走ってきたのか息が乱れていた。朝から降っている雨に打たれたのだろうか。オイラはこの場所から動けなかったはずなのだが、体がふわりと軽くなった。今のうちだと、主のもとへ急いで向かう。
すると、あの汚い男の声が聞こえた。顔すら見せずに、門に向かって怒鳴っているのだ。
「お前のような不孝者が今さら何の用だ! 両親の葬儀にも出ず、戦場で男の尻を追いかけていた泥棒猫め! 何一つ、思い出の品すら持たせるな! さっさと消えろ!」
ひどい罵声を浴びせられているというのに、主は微動だにせず、悲しそうな顔をしていた。すると、慌てたジョセフが門まで走ってきて跪く。
「イリスお嬢様っ! ああ、申し訳ありません、申し訳ありません……。わたくしどもでは、旦那様と奥様をお守りすることも、この家を守ることもできず……っ」
泣き崩れるジョセフに、彼女はそっと微笑み、彼の肩に優しく手を添えた。
「いいえ。ジョセフは両親によく尽くしてくれたわ。……ごめんなさい。わたくしでは、誰も助けられなかった。……お父様も、お母様も。そして、あなたたちも巻き込んでしまったわね」
「そんな、お嬢様のせいではありません! どうか、どうか……」
ジョセフの苦しそうな表情に、これまで色んな葛藤があったことが分かる。この家を捨てれば自由にはなれるが、年寄りを雇ってくれる家なんてそんなに簡単に見つかるはずもない。そして、最後に、先代の忘れ形見である『お嬢様』の無事を確認したかったのだろう。
「ジョセフ、早く屋敷へ戻って。わたくしは大丈夫。これまで戦場でも生きてこれたのですもの。……体を大事に、長生きしてね」
「ううっ、こんな時にまで私の体を気遣ってくださるなんて! 私の生がある限り、毎日お嬢様の無事をお祈りしております」
深々と頭を下げて、何度も振り返りながら屋敷へ戻るジョセフ。そんな彼を見送った主は、慣れ親しんだ屋敷に向かって深々と祈るように頭を下げた。
「……今まで、ありがとうございました」
その背中は雨に打たれて小さく、けれど折れない芯のような強さがあった。
雨の街へと歩み出す主の足に、オイラは昔のように首を擦りつけた。濡れた服の冷たささえ通り抜けてしまうオイラの体だけど、不思議と、主の魂の温かさだけは伝わってくる。
「あら? ……あなた、シャドーなの? そう、わたくしの帰りを待っていてくれたのね」
主が足を止め、何もない空間――オイラがいる場所を見つめた。
その瞳に涙はなかった。ただ、深い慈しみだけを湛えて、目に見えないオイラの頭を撫でるように手を動かす。
「待たせてごめんなさい。……わたくしについてきてくれる?」
『ああ、懐かしい匂いだ。本物の主なんだな。オイラはどうやら主がいれば移動できるらしい。この屋敷には残りたくないから、オイラも連れてってくれ』
「まあ、嬉しいわ。……一人になるのは、ちょっと耐えられそうになかったのよ。ありがとうね、シャドー」
主は、存在しないオイラを抱きしめるように腕を組み、重い足取りで歩き出した。
思い出の一切を奪われ、雨に濡れた体一つで。
この先に、どんな明るい光が待っているのか――それを知っているのは、今のところ、この世ならざるオイラだけだった。




