第25話 聖女の祈りと、名もなき感情
レオニア公国の第一王子、レイモンドが去った後の木陰には、静まり返った空気と、彼が纏っていた気品ある残り香だけが漂っていた。
木漏れ日が揺れる中、オイラの主であるイリスは、まるで時間が止まったかのように立ち尽くしている。その手は、先ほどまで王子が跪いていた虚空を彷徨うように動いたあと、所在なげに胸元で組まれた。
生まれて初めて受けた、熱烈な愛の告白。
あまりに唐突で、あまりに完璧なプロポーズに、彼女の思考回路は完全に焼き切れてしまっていたのだ。
『……主、いつまでそうしてるんだ。口に虫が入るぞ』
オイラは彼女の耳元まで音もなく近づき、わざと意地悪な声で囁いた。
実をいうと、先ほど「想い人は誰か」と問われた際、パニックに陥った彼女の耳元で『それってヴァンじゃないのか?』と悪魔の囁きを吹き込んでおいたのはオイラだ。その結果、彼女は「ヴァン?」と疑問形ではあったが、しっかりと彼の名前を口にして王子を撃退……もとい、お引き取り願ったのである。
「……ああ、シャドー。わたくし、どうしたらよかったのかしら」
ようやく我に返った主が、深い溜息と共に肩を落とす。
『どうしたら、じゃないだろう。主、ああいう時はちゃんと断らないと、付け込まれるぞ。まあ、あの王子が底抜けの善人だったから良かったが、普通の男なら「脈あり」だと思って食らいついてくるからな』
「……ええ、そうよね。そうなんだけど、こういう時にどういう顔をすればいいのか、本当に分からなくて」
イリスは困ったように眉を下げ、足元の小さな雑草を見つめた。
彼女は三年戦争の間、常に「聖女」として崇められ、遠巻きに見られる存在だった。一人の女性として、真っ直ぐに欲された経験など皆無なのだ。
『もしかして、あの王子みたいな顔の男が好みだったのか?』
気になったオイラは、彼女の顔を覗き込みながら問いかけた。
ヴァンは言わずもがな、荒野の岩山を思わせるワイルドで力強い顔付きだ。対して王子は、公国の至宝と謳われるにふさわしい、磨き上げられた白磁のような美形である。
「えっ? お顔は……たしかに、お美しい方よね。でも、好み……ではないみたい。好みだと、見ているだけで心臓が壊れそうにドキドキするのでしょう? わたくし、王子様を見ていても「綺麗だなぁ」と感心するばかりだったわ」
純粋すぎる主の回答。どうやら、見た目の美しさだけでは、彼女の鉄壁の鈍感さは崩せないらしい。
『ほう。では、主は一体どんな男が好みなんだ?』
あの筋肉ダルマのヴァンに教えてやる気は毛頭ないが、家族の特権として少しだけ掘り下げてみることにした。
「好み、は分からないのだけど……。王子様がとても熱心に、公国での華やかな生活を語ってくださった時、わたくしの頭に浮かんだのは別のことだったの」
「別のこと?」
「ええ。ヴァン様と一緒に食べた、あの不格好な焼き菓子のことや……仕事終わりに皆で笑いながら飲む麦茶の匂い。そんなことばかり思い出してしまったのよね」
主は、遠くで農具の手入れをしている領民たちの笑い声に耳を澄ませ、愛おしそうに目を細めた。
あの焼き菓子。ヴァンが大きな手を粉まみれにして、悪戦苦闘しながら焼き上げた、形もバラバラで少し焦げたクッキー。王宮のパティシエが見れば失神するような代物だが、あの時のヴァンの照れ臭そうな顔と、二人で分け合った素朴な甘さは、何物にも代えがたい宝石のように彼女の心に刻まれているのだ。
『……ふん。豪華な王宮での贅沢三昧より、あの脳筋騎士との野暮ったい泥まみれの生活を選ぶとはな。主も相当、毒されてるぞ?』
「えっ? わたくし、ヴァン様のことが……?」
ようやく、自分の心に灯った火の色に気づきかけた主。
揺れる彼女の瞳を見つめながら、オイラは少しだけ寂しさを覚えて、ひらりと身を翻した。
『さあな? その気持ちに名前が付くまで、ゆっくりと考えたら良いさ。……時間はたっぷりあるんだからな』
オイラはそう言い捨てると、なぜか胸の奥がちりついて、そっぽを向いた。
かつて野良猫だったオイラが唯一「家族」と認めたのは、このお人好しな主と、その両親だけだった。今では主しか残っていない。
そんな主が選ぶのは、あの脳筋のヴァンなのか、はたまた全く別の誰かなのか。
『どっちにしても、オイラが納得いく日は来ないんだろうなぁ……』
茜色に染まり始めた空を見上げ、オイラは小さな声でつぶやきながら溜め息をついた。
主の恋路を邪魔する気はないが、それでも「筋肉ダルマ」に主を奪われる未来を想像すると、どうしても面白くない。
しみじみとした寂しさを振り払うように、オイラはわざと大きな欠伸をして、夕暮れの影の中へと消えていった。




